壬申の乱

学校の歴史の時間に聞いたと思いますが、昔々、「壬申の乱」と言うのあったそうですね。
今から約1350年ぐらい前の飛鳥時代、672年のことだそうで、天皇の座を争っての身内同士の争いですね。私も生まれていませんから資料から得た知識しかございませんが、なんか戦国時代の戦記物と同じかそれ以上に面白いのです。
672年に起きたこの事件、48年後の720年に書かれた「日本書記」に多く書かれているようです。
事件が起きたのは第38代天皇、天智天皇(てんじてんのう)の時代。
天智天皇といえばご存じのとうり皇子時代の「中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)」の名前でも有名ですね。そうです有名な「大化の改新」を中臣鎌足(なかとみのかまたり)とともにやってのけた張本人。中臣鎌足(669年10月没)は「壬申の乱」のときは既に亡くなっていました(中臣鎌足は亡くなる前日に天智天皇よりそれまでの功績を称えられ、内大臣に任じられ「藤原」姓を与えられました、「藤原」という姓は中臣鎌足が最初なのです、そして歴史上有名な「藤原不比等(ふじわらのふひと)」は中臣鎌足の次男なのです)。
で、「壬申の乱」の「壬申」て何かと思いますが、天武天皇(てんむてんのう)元年の干支が壬申(みずのえさる)にあたるからだそうです。

壬申の乱の時代背景はどんな感じ? 
660年の年、斉明天皇(さいめいてんのう)6年に、朝鮮半島で争いが起きました。唐と新羅の連合軍が百済を征服しようと攻めたのです。百済と同盟関係にあった日本(当時は倭国)も関わらざるを得なくなり、斉明天皇は661年に朝鮮半島へ出兵することを決断し、自ら九州へ出兵するも「那の津(福岡にある地名)」にて急死してしまいます。後継者であった中大兄皇子(※天智天皇)は即位せずに後を継ぎ政務をとりましたが、663年(天智天皇2年)の「白村江(はくすきのえ)の戦い」に惨敗し百済復興はなりませんでした。この失敗が中大兄皇子にはそうとうショックを与えたようで、667年(天智天皇6年)に飛鳥から近江大津へ遷都します。この5年後に壬申の乱は起こります。
なぜ遷都したのかはよく分かっていません。諸説ありますが、飛鳥には抵抗勢力が多かったので、新しい都で自分の思うように政務をしたかったのではないかという説があります。
661年8月24日(斉明天皇7年7月24日)に斉明天皇は崩御したのですが、中大兄皇子はすぐに天皇に即位せずに政務を執りだします。なので歴の表記が分かりにくくなっています。実質、662年が天智天皇元年に相当するのですが、ほんとうに即位するまでの表記が「中大兄皇子」で668年2月20日に即位してからの表記が「天智天皇」となります。
なぜすぐに即位しなかったのか、これも諸説ありますが国防に専念していたためと考えられています。

壬申の乱へ。
上記のとうり668年2月20日に中大兄皇子は即位し天智天皇となります。
668年4月10日(天智天皇7年2月23日)に天智天皇は同じ母から生まれた弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)を皇太弟にしました。当時すでに天智天皇には大友皇子(おおとものおうじ)という実子がいたのですが、当時の考えとして天皇に息子がいても、天皇と同じ母から生まれた弟がいれば、その弟が次期天皇になるというのが常識だったようです。また大友皇子の母親があまり身分の高い出身ではなかったからという説もあります。
ですが、天智天皇はなぜか、よほど大友皇子がかわいかったのか、671年1月2日(天智天皇9年11月16日)に大友皇子を太政大臣としたのです。太政大臣にするということは天皇の後継者であるという意味でもあったようです。

大海人皇子「え、次の天皇は俺だろう・・・!」
大海人皇子からすればせっかくのチャンスを横取りされた感じで怒りますよね。ですが、ぐっとこらえます。

それから数か月たった671年10月17日(天智天皇10年9月)に天智天皇の体調が悪化し臥せてしまい、その後、重体となったために大海人皇子を呼ぶように蘇我安麻呂(そがのやすまろ)が遣わされました。
後継者のことに違いないと察して駆けつける大海人皇子ですが、天智天皇に会う前に蘇我安麻呂に「言葉に気をつけて返事をされたほうが良いと思います」と囁かれます。

天智天皇
予もそろそろ駄目かも知れない、後のことをお前に頼みたいが、いかがであろう
大海人皇子
(おかしい! 兄は大友皇子に後を継がせたいはず。これは罠か、俺が継ぐと返答したら殺されるかも知れない)
せっかくのお話ではありますが、辞退させて頂きます。私は近ごろ体調が悪くとても重責を負えるとは思いません。私は剃髪して仏門に入るつもりでございます。後をお継になるのは大友皇子がよいと思います。

大海人皇子は、天智天皇が自らまたは部下を使って邪魔者を殺してきた過去と残虐性を知っていたので、「私は天皇になる気はないです」と言い、逃げることにしたのです。
その日のうちに髪をそり、妃(後の持統天皇)と子供(草壁皇子)、数十人の共を従え吉野に逃れました。
これを見た朝廷の役人たちは「虎に翼を付けて野に放ったようなもの」と言ったそうです。大海人皇子の頭脳明晰さと勇猛さは皆に知られていたようです。
この時、大海人皇子の長男の髙市皇子は近江大津京に残り、第3子の大津皇子は飛鳥古京に留まっていました。
※吉野とはどこで何かは、はっきりしたことはまだ分かっていないようですが、奈良県の吉野町近辺に吉野宮という離宮があったようです。

672年1月7日(天智天皇10年12月3日)、天智天皇が崩御します。
そして大友皇子が後を継ぐのですが、天智天皇崩御から大友皇子が自死するまで約半年と短く、即位に関連する儀式が行えなかったようなのです。なので長い間、歴代天皇とは認められていなかったようで、明治3年になって「第39代天皇 弘文天皇(こうぶんてんのう)」と追号されたとのことです。ですから「弘文天皇」ではなく、「大友皇子」の表記でお話を進めます。

吉野で仏門に入り静かに暮らそうとしていた大海人皇子ですが、自分たち家族の身をまもるため都の動静には気を配り情報を収集していました。
すると、「大友皇子が天智天皇の陵墓を山科に作るという事を理由に人を集めている、そしてなぜか武装させている」という情報が入ってきました。さらに吉野へ通じる道を閉鎖しようとしているという話も。
これを聞いた大海人皇子は、自分たちを攻撃するための準備に違いないと考えました。そして決断します、大友皇子と戦うしかないと。
大海人皇子「このまま身を滅ぼしてなるものか!」
そして6月24日に大海人皇子たちは吉野を脱出し、翌日の25日に現在の柘植で髙市皇子と合流、さらに翌日の26日に四日市で大津皇子と合流し、27日に私領のあった美濃国不破郡に着き、そこに本営を置きます。吉野から美濃まで直線距離で120㎞ちょっとあるのですが、わずか3日で移動したようです。
そして東西をつなぐ「不破道」(琵琶湖の東側にある街道)を閉鎖し、髙市皇子(たけちのおうじ)を最高司令官にすえ、7月2日に近江京へ進軍を開始させ、4日には別の部隊を大和の飛鳥古京に進軍させ、それぞれで戦闘を開始しました。
大和方面では朝廷軍の攻撃に苦戦しましたが、美濃からの援軍が間に合い朝廷軍を撃破します。さらに近江湖東での戦いも大海人軍が優勢となり、最後は瀬田唐橋での決戦となります。
朝廷軍と大海人皇子軍の最終決戦ですが、大海人皇子本人はこの決戦の場には出向かず不破の本陣で指揮をとっていたようです。

7月22日、橋を挟んで東側に村国男依(むらくにのおより)を大将とした大海人皇子軍が布陣し、西側には大友皇子が率いる朝廷軍が布陣した。
決戦の火蓋が切られると、朝廷軍は雨のように矢を放ち大海人皇子軍の前進を阻み、さらに朝廷軍は橋の中ほどの板を外し大海人皇子軍の前進を阻止します。が、大津皇子の従者、大分君稚臣(おおきだのわかみ)が矢の降る中を進み突破して行きます。それがきっかけとなり朝廷軍は総崩れとなり、大海人皇子軍はそのまま押して瀬田川を渡り粟津岡(あわずのおか)に陣を置きます。
7月23日、大海人皇子軍に追走された朝廷軍は破れ逃走し、ちりじりになり、大友皇子は山前(やまさき)で首をつり自殺します。
この間、大海人皇子は不破の本陣にいて知らせ待っていましたが、届けられた大友皇子の首を見て大友皇子の死を確認。
翌年673年3月20日に大海人皇子は即位して第40代天武天皇(てんむてんのう)となります。
壬申の乱の終わりです。

なぜ軍事面で優勢と思える朝廷軍が負けたのか。
大海人皇子は、吉野に隠遁すると見せかけて実は戦の準備をするための時間稼ぎをしていた。そして美濃国安八麿郡の大海氏や同族であった尾張氏など、天智天皇の治世に不満を持っていた地方豪族たちを味方につけることができた。大友皇子が大海人皇子をあまく見ていた等々。
真実はわかりません。日本書記は大海人皇子側が作ったものなので、好きに作れたのです。

余談
大海人皇子は中大兄皇子の娘を4人も妻にしていた。
大海人皇子は有名な歌人の額田王(ぬかたのおおきみ)を妻にしていて、その間に生まれた十一皇女(とおちのひめみこ)は大友皇子の正妃である。
天武天皇のあとの持統天皇(じとうてんのう)は天武天皇の妻で天智天皇の娘である。
天智天皇は実の弟の妻、額田王にちょっかいを出し自分の妻としたと考えられている。
とっても親族として繋がりが強そうに思えるのですが、殺し合うんですね。
この頃の夫婦関係が入り乱れていて、家系図を見てもよく理解できません。
































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