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メシに楽しみを見出すことが自分の中での危険信号だと確信した話

今の会社に昨年4月から属し、それから今までの数ヶ月、撮影前後や経費精算など以外では全く出社せず、9割リモートワークみたいな状態で過ごしている。

緊急事態宣言が出たり出なかったり、接触を控えるようにという文脈が外出するなに置き換えられ、外出することを悪とする風潮になっていたりで、外に遊びに行くこともかなり減った。

とは言え無視して一人もしくは二人くらいで普通に遊びに行ってんだけど。

昨年11月から一人暮らしをはじめ、バイクも車も実家に避難中&故障中で乗れないから驚くほど暇で、大体プロゲーマーの配信か芸人のラジオに時間を浪費するのがここ数ヶ月。

だからメシに楽しみを見出すようになったけど、これがめちゃくちゃ危ない状態だと気づいたという話をする。


まず僕は結構メシを作るのが好きで、週5くらいでちゃんと時間をかけて飯を作って食ってる。

男の一人暮らしとは思えないくらいの調味料の豊富さと、冷蔵庫のパンパンさを見てもらいたいくらいメシを作るのが好き。

ただここで重要なのはメシを作るのが好きなのであって、むしろ食うのがサブみたいになってて、できるものなら腹を空かした誰かが僕の作ったメシを食って満足して欲しいと思う。

まあでも頻繁にメシを作ってるとちょっとずつ飽きてきて、さらに時間も結構かかるから面倒くさいなーと思っていたのが最近。

「中央線沿い ハンバーグ」とか「小金井 ランチ」とかの検索が増えてきて、俺は美味いメシを食いに行きたいという欲が出てきたことにも気づいた。

もともと僕は高いメシを食うのが好きな人種は感性が乏しく、待ってるだけで運ばれてくる小さい小さい刺激を求めるような、僕と真逆にいるようなものだと思っていたが、僕もそこに向かおうとしてると思いこれは危険信号だなと思った。

良いメシを食うことを楽しみにしてる時点で自分的にかなりマズい。

上に書いた通り、メシは足を運び椅子に座って入れば運ばれてくる。

そしてそれを食って快楽を得る。

ちっさ、快楽ちっさ、さみし。

そして、高い金を払ったため、体験を最大化しようと写真を撮り、SNSに共有し食欲とともに承認欲求も同時に満たしたくなるのが"メシの常"。


僕が一番刺激を得る娯楽はバイクでの峠走行やサーキット走行で、これが肉体的にも精神的にも最高に刺激を得られると、短い人生の中で見つけた。

死ぬかもと常に思いながら、自分の技術を使い本能に従い、なんとか生きる方向の可能性をデカくしていく行為。

バイクも車も、多分ボードとかダウンヒル、クライミングとかも同じような行為なんじゃないかと思ってる。

こういう行為から刺激を得ていたのだけど、東京はバイクも車も全く楽しめない土地だから、どんどん簡単に得られる刺激にシフトして行った結果が今なんだと思う。

めちゃくちゃマズい。

メシ食い趣味なんて道にちょいちょい落ちている1円玉を延々と拾い続けるような刺激の得方だから、クソでかい刺激があることがない。

高いメシでもあまりに刺激が少ない。

死ぬ可能性ほぼ0だし、身体も動かさないし、頭もそんな使わない。

東京は無駄が出ないようぎっちぎちにいろんなものが詰め込まれているから、身体を動かし刺激を得る場所が少なくなった結果、高い金を払い良いメシを食う、忙しい人でも浪費満足感を得られる娯楽に収束しいていったのかもしれない。

そういえば田舎に極度のメシ好きって少ないかも。

そもそも娯楽か?メシ食いって。

デカい刺激を得られない現状だから、小さすぎる刺激を拾いに行こうとするけど、それじゃ何も満たされないぁと。


そして何より、メシを娯楽にする人種になんの非もないのにこんなnoteを書いている精神状態が、刺激を得られなさすぎる鬱憤の表れなのである。

東京で僕みたいな人種が刺激を得ながら生きていくのはとても難しい。

小さな刺激と穏やかな毎日に幸せを見出し、危険を冒さず生きていける人を尊敬する。

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