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チキンライスを出囃子にして火花を夜に灯す

温泉でゴーグルを付けている少年に出会った。
物心ついた頃から、ひっそりと、ずっと、僕が知りたかったことを、彼は耳打ちするように、でも、力強く示してくれているように映った。

温泉でゴーグルを身につけている彼はおかしいのだろうか。彼は"普通"な人間ではないんだろうか。

それとも、ゴーグルはプールや海で泳ぐときだけに使う道具なんだろうか。温泉は浸かるためだけに存在しているのだろうか。

彼はゴーグルをつけて、温泉で泳いでいた。

温泉を、ゴーグルを、どういうものとして彼は捉えていたのだろう。真意はわからない。

でも、温泉でゴーグルを身につけるという選択をした。僕は彼の選択を美しいと思った。同時に彼の人生も美しいと思った。

でも、世間や社会や経済は、その行為をおかしいと声を大にして言うだろう。この国は異形を徹底的に排除する。世間や社会や経済が唱える"普通"、"常識"、"当たり前"に対して、真っ当に、清々しく、純情に生きなくてはいけない。

でも、絶対に否定しちゃダメだ。なぜなら、ゴーグルをつけて温泉で泳ぐという『感受性』を彼は持っている。そこに至った経緯を僕たちは想像できないし、できるわけない。

「その価値を絶対に奪われちゃダメだよ」

鳩尾から喉へとスーッと湧き上がってきたそんな言葉を髪に滴る水と共に流し、温泉を出た。


今でも覚えている。小学校という小さな社会と対峙したときに僕が抱いた感情は「恐怖」だった。
生まれたての子犬が世界を初めて見つめるときのような目でこの世界を眺めていた。

この社会から、淘汰されることからはなんとしても逃れないといけないし、友達に嫌われてはいけないし、校内で常に循環しているネガティブな噂の標的にならないように努めなかればならない。

徹底的に、何がなんでも、"普通"に歩み寄らなければならない。
特に、"普通"な人間だと思えるほど、自分を肯定できない人にとってはなおさらのことだ。
物心ついた時から、"普通"、"当たり前"、"常識"に自分の価値を譲渡して生きていくことを僕は選択した。


自分で言うのは恥ずかしい話ですが、ありがたいことに、僕のイメージを問うと「優しいね」「面白いね」なんて言葉をかけてもらうことが多い。

その人の好意を無下にすることになってしまいますが、そんな言葉をかけてもらったときには、僕は決まって罪悪感を感じる。

「この人の優しさを踏み躙ってしまった。」

優しい人間にならないと、面白い人間にならないと、この世界を生きていけない。
たとえ、自分を欺いてでも、その人の描くこまつもとあき像に成り切って、その人をガッカリさせないように、演じて生きる。
まるで水のように、その場その時の形に柔軟に変形させて、生きていく。

優しいなんて言ってもらう資格はない。
気持ち悪いくらいのことを言ってもらわないと割に合わないし、いっそのこと、優しいなんて言葉よりも、そう言ってもらえる方が僕にとっては気が楽だ。
そうやって生きてきた。いや、22年間、そうやって生き延びてきた。生きる資格なんて、生まれた時から剥奪されていると思っている人間にとっては。
社会や世間、経済などが描く型に自分を当てはめて生きていかないといかなかった。


自分の価値を根底から揺すぶられた時、人は嗚咽が止まらなくなるくらい苦しくなる。
そんな経験を2019年3月に東北で震災遺構を見た時と2020年4月にコロナウィルスに関するニュースが途切れることなく日常に表れたときに、僕は痛感した。

自分の価値はなんなのか。あの日、捨てることを選んだ自分の価値はなんなのか。自分の人生にとって、正しいものとは、信じるものとははなんなのか。
猛烈に知りたくなった。止まらなくなった。むしろ、言語化をしないと、この先、生きていけないと思った。

だから、アフリカに行かないといけなかった。

いろんなエッセイを読む中で、自分のぼんやりと見えていた理想像と少し重なる方の本と出会った。その方はアフリカをフィールドに活躍されている方で、「みんなが笑って過ごせる世界をつくる」という、その方が学生時代にアフリカ・トーゴ共和国に訪れた際、現地でできた友人が放った言葉を受け継いで、現在も活動をされている、そんな方が、ある日、誰でもいいので誰か一緒にアフリカに行きませんかと、発信されているのを見て、僕はアフリカへの出国を決めた。

と、同時に、僕は就職活動というものを辞めた。(辞めたなんて、書くと自分の意志で辞めたように思うかもしれませんが、辞めざるを得なかった感じです)

就職活動は大学4年次に一斉にスタートするという"常識"
名の通った大きい資本を持つ企業に就職することが"普通"
決められた商品を選び取るカタログのように、決められた職種・業種・属性から選ぶ"当たり前"

"常識"や"普通"や"当たり前"を正しいものとして、信じるものとして、当てはめて生きていくことに苦しさを感じていたから、僕は就職活動を辞めた。
(特に僕の通っていた学校は工学系で学校推薦で企業に就職することがほとんどだから、そのあたりは強く公式化されていると思います。)

そして、後程にも書きますが、常識を正しいものとして生きる道に進んでいる方を僕は絶対に否定しないし、美しいと思っています。

でも、僕の場合はその状態で歩み始めると、自分の欠落(アイデンティティの欠落)を埋めるために生きていくことで人生を終えることになるだろうという危機感を抱いた。
たとえば、過剰にモノを買うことによって心を満たしたり、マウントをとったり、他人の価値を下げることで精神を保ったり、自分のプライドを守るために他人を否定したり、頑張っている人間に冷や水をかけたり、、
そうやって、等身大の自分に強引に下駄を履かせ、自尊心を無理やり満たして生きていく姿がイメージできた。

スタート地点に立つ前に、ぼんやりでいい、自分の進む方角を決めないと生きていくことができなかった。


そして、2年と半年でやっと分かった。
「"普通"、"当たり前"、"常識"は正しいわけではない。ただのマジョリティの意見だ。」
「人間は一人ひとり違う生き物で、正しいこと、信じることはそれぞれが握っている。」
過去に戻れるデロリアンがあれば、苦しみ悶えていたあの日の小松幹昂にこの言葉を伝えにいくだろうか?
多分行かない。
アフリカに行ってなかったり、かっこいい大人たちに出会っていなかったり、僕の心と常に同居している絶望や恐怖を溶かしてくれるような小説・エッセイ・映画・歌に出会っていなければ、気づくことは絶対にできなかったから。


ここ最近、正直にいうと未来を考えることに抵抗を感じる。考えることすら、億劫になる。なんか、こわい。

本屋の平積みされた本からは「好きなことをしていきよう」「やりたいことをして生きていこう」
テレビCMで流れる企業の広告には「持続可能な世界を実現するために」「カーボンニュートラルを実現します」
駅のホームにはある企業のブランディングのための企業理念が掲げれている「サスティナブルを・・・」「インクルーシブな社会を・・」
Z世代?と言われる方々がいう「SDGsのために・・」「社会貢献のために・・・」
TVの中から、「コンプライアンスが・・・」
そして、街のいたるところには多様性を意味する虹が掲げられている。

素晴らしいことを言っていると思う、でも、こわい。まるで、カツアゲをされているときみたいに、首根っこを掴まれ、怒気が込められた声を張り上げられているような気分になる。言葉の真裏に不寛容がチラチラ見え隠れしている気がする。

ずっと前からそうだったのかもしれない、でも、ここ最近はその気配をより一層強く感じる。

正しさが人間を追い越し、一人歩きをしている。正しさに迎合しに行かなければいけないのだろうか。それとも、この考え自体が'気のせい'なのだろうか。

先に言っときます、僕は「好きなことしていこうぜ」「やりたいことして生きようぜ」「夢を持とうぜ」なんて絵空事を言うつもりはないし、そういう生き方を僕自身がするつもりはない。社会貢献とかSDGsとかに形容されるようにいわゆる「社会のため」に生きていくつもりもありません。よく勘違いされるので先に言っておきます。ごめんなさい。


ただただずっと、普通ってのは何なのか、知りたかった。


僕の好きな映画、花束みたいな恋をした

その映画で菅田将暉が発した言葉と表情に目を奪われた。出会った当時は好きなことや趣味・趣向が合っていた麦(菅田将暉)と絹(有村架純)が外的なものによって、お互いの距離が離れていく。現実を直視することを自分に課した麦が理想を描くことを求める絹に向けて放った。

「生きるってのは責任なんだよ」

この言葉の真意をずっと考えていた。と、同時にどこか妙な既視感も感じていた。

イラストレーターとしての生計がたたず、お互いの両親からも企業に就職して働くよう勧められる。その言葉を信じて、会社で寝泊まりする日があったり、休日にも出勤する、いわゆるブラック企業に勤め過ごす日々の中で、菅田将暉演じる麦がある一つのニュースに心を奪われる。

「俺は労働者ではない」

そう言って、トラックの運転手が海にトラックを捨てたという内容のものだ。その後、絹(有村架純)に先述したセリフをはいた。


"労働者って何だろう?"


僕は基本的には優しい心を持ち合わせていない。でも、自分でも惚れ惚れするくらい優しい心になる時がある。それは、絶望や諦念の中をさまよっている人を見るときだ。そしてそれは、僕自身が物心ついた時からその世界の住人だからだと思っている。

僕はコロナ禍と東日本大震災の被災地にいった時、死ぬほどしんどかったし、何もできない自分が悔しくて仕方なかった。
それは先述した通り、自分の価値を譲渡していた時に、骨組みをバラバラにされたから。
だから、就職活動を辞めなきゃいけなかった。

でも、就職活動を辞めると友達に伝えた時にこんな言葉が帰ってきた。
「おかしいよ」「普通じゃないよ」
そうだよね〜なんて笑って答えるしかなかった。結局そういう時にも、その場が重い空気にならないような最適解を僕は選びとる。


"人間の点だけを見てその人を判断することはできるのだろうか?"
"そこに至った経緯を聞かずに、否定するという選択肢を選ぶことはできるのだろうか?"
"その人が今まで生きてきた人生の一部を取り出して、その人の何がわかるのだろうか?"


2020年、新型コロナウィルスによって一度目の緊急事態宣言が発令され、外出自粛のムードが漂った時、テレビには人通りがほとんど無い渋谷の街が映し出されていた。時を同じくして、自粛警察と呼ばれる方や、マスク警察と呼ばれる方が出現した。開けている(開けざるをえない)お店には悪口が書かれた紙が貼り付けられていた。


"あの日、ステイホームを徹底していた人も、誰かを監視していた人も、張り紙をしていた人も、彼ら彼女らは何を正しいと思っていたのだろうか?何を信じていたのだろうか?"
"そして、どうしてそのような行為に及んだのだろうか?"


この国の多くの人は"常識"や"当たり前"や"普通"を強く信仰している。

コロナによる自粛ムードが起こった時には世間がこう叫んだ。
「コロナになるな、そして、コロナになる人間は危機管理能力のないダメな人間だ。自己責任だ。」
僕たちのなかに、世間の声が共有された。

常識を破った人間は裏切り者とされる。常識を信仰している人間にとってその行為は排除の対象になる。だから、マスクや自粛をしていない人間やお店を開けている人間、自粛ムード中に感染した人間は容赦無く攻撃の対象になる。

「いい企業に行って、出世して、マイホームを得て、安定した家庭を築く」
社会が叫んでいるそんな"普通"を僕の友達は信じていた。だから、僕は攻撃の対象になった。

花束みたいな恋をしたの話に戻る。
「経済に対して真っ当に生きろ」
経済からなる当たり前を麦は信じようと努めていた。何とか信じようとしていた。でも、隣には理想を持ち続ける絹がいた。
資本主義における労働者という役割として経済に貢献しようとしていた、だから、彼は生きるってのは責任なんだよ。つまり、経済の中にある当たり前に対して真っ当に生きること、それこそが生きる義務であり、責任なんだよ。そう伝えたかったのではないだろうか。

お笑い芸人のニューヨークが2020年のM-1グランプリでやった漫才では、軽犯罪がボケとしての機能を果たしていた。
それは、この国の時代性をうまく反映しているから。途中のツッコミとして発せられる言葉がその背景を単的に示している。
「このご時世舐めんなよ、逃走中リタイアしただけで炎上する時代やぞ」

「逃走中は最後まで逃げ切ることを目指す演芸だ」という常識に対して、'リタイアをして賞金を得る'という逸脱した行為を行ったから、批判の対象になったし、ボケになるのだろう。

多数派に自分の意見をぶつけることに怖さを感じるのも、同じような現象といえるだろう。

この国は"普通"、"当たり前"、"常識"を強く信仰している。

もしかしたら、違う言葉なのかもしれない。世間や社会や経済や企業や国やそれらに括ることができないようなものなのかもしれない。でも、一つ言えることは、この国の多くの人は何かを強く信じている。
それを知るにはまだまだ、経験も知識も足りない。僕自身も模索しているところです。


ただ一つ。これだけは言える。

"普通"、"当たり前"、"常識"は正しい訳ではないということだ。

なぜなら、大多数の人にとって最適化された答えでしかないからだ。少数派はこの答えからこぼれ落ちている。
(資本家にとって都合のいいように決められていることが多いから)。

第155回芥川賞を受賞した「コンビニ人間」という小説では、コンビニで働くことで主人公が救われる。生きづらさを抱えていた彼女は、コンビニで商品を陳列をする、レジを打つ、そんな平凡な(だと言われている)ことが彼女にとっての生きがいになっている。
彼女は正社員ではないし、結婚もしていない。経済を大きく回していないし、社会貢献だってしていない。
でも、コンビニで働くことを正しいと彼女は感じた。彼女にとってコンビニは生きるということを実感できる場所だ。
彼女は世間がいう"普通"では無いのかもしれない。しかし、
彼女はおかしくなんかない、彼女は彼女の正しいと思う生き方を選択した。

結局のところ、"何が正しいのか"という問いは、社会や普通や常識が決めることじゃなくて、一人ひとりが決めるものなんじゃないんだろうか。
そんなことをこの小説から教えてもらった。


じゃぁ、僕にとって正しいとは何なのか。何を信じて生きていけばいいのだろうか。

ずっとこの世界が生きずらかった。

自分自身を肯定できるほど、足並みを揃えようとしてくることに反抗できるほど、強い人間でもない。

でも、この社会がことあるごとに唱える言葉の裏にある、
「資本主義の恩恵をよどみなく受けることができる生き方こそ正しい」を意味するような発言にはずっと違和感があった。


僕が通っていた、幼稚園に"普通"はなかった。
お絵描きの時間もおねんねの時間も、決まり事は何もなかった。
子供には自ら成長していく力があるといい、自由にできる環境だけ用意して、何をしてもよかった。楽しかった。

でも、小学校に上がり、僕が抱いた感情は恐怖だった。
当たり前だけど、何をするにも時間が決められていて、集団行動で、先生の言ったことや学校の決められたことに従って生きていく。
単純にわからなかった。
僕は自分を普通だと思えなかった。
だから、周りを見て、普通になろうと努めた。

映画のカイジで登場する、2つの高層ビルをつなぐ鉄骨を渡るシーンがある。
ずっとあの上を歩くような気持ちで僕は生きていた。
真っ暗のなか、風当たりに常に気を配り、何度も首を左右に振り足並みを揃える。でも、少しでも足を踏み外せばこの世界から排除される、
そんな怖さを常に抱えながら、この世界を歩き続ける。

でも、その僕がずっと恐れていたものもやっとわかった。
正しいと思い込んでいた"普通"というやつは正しいわけではないということ。
何が正しいのか、それは俺だけが握っているということ。

この世界には「やりたいことをしていこう」「好きなことをして生きていこう」そんな言葉が溢れている。でも、そんな言葉には何も救われなかった。
絶望や諦念を常に抱えながら、でも、それを知られてはいけない恐怖を心の奥に押し込んで、夜が明ける前のような世界で生きている人間にそんな言葉は全く意味がない。

僕が救われたのは松本人志のチキンライスという曲だった。
中学校1年生の道徳の時間で見たチキンライスのドキュメンタリーで、松本人志が幼少期に体験した自身の弱さを音楽に昇華させる様を見て、あのお笑いのカリスマがそのような弱さを発露する姿を見て、心の奥に弱さを押し込んで生きている僕にとってその曲は希望になった。
あの日以来、チキンライスは苦しみに包まれた僕の心をゆるくしてくれるヒーローに変わった。

他にも、
「the greatest showman」という映画では、自分が正しいと思うことに真っ直ぐに生きていく素晴らしさを教えてもらった。

小説家の西加奈子さんには、辛い時に寄り添ってくれるような素敵な言葉をたくさん教えてもらった。

星野源にも、世界一のDJと日本一のラッパーのコンビにも、土曜の夜の有楽町男たちにも、たりないふたりにも、日向坂46にも、まだまだ他にも。

社会にありふれた血の通っていない、灰で塗り固められたような言葉でなく、
生きた軌跡が透けて見えて、今にも踊り出しそうな言葉にたくさん救われた。


僕はただただ『ゆるくしたい』、苦しみを。

僕が救われたように、この世界に横たわる、絶望や諦念やしんどさや悲しみや苦しみを溶かしてくれる、ゆるくしてくれる、軽くしてくれる、味方になってくれる、そんなモノを僕はつくっていきたい。

何が正しいのか、何を信じているのか、それを決めるのはその人自身だ。
でもこの世界はそれを決めることがとても難しい。

やりたいことをやって生きろって言われるし、好きなことをするべきだとか言われるし、それおかしいって言われるし、普通じゃないよって言われるし、社会不適合者だとか言われるし、冷笑・嘲笑の的になるし、めんどくさい。しんどい。

でも、この世界で生きていかなきゃいけない。

元気にするとか、勇気を与えるとかそんな素晴らしい話じゃない。
震災やコロナや貧困や孤独や人間関係や正しさを押し付けられることで感じる苦しさをフッと軽くしたいだけ。

なぜなら、苦しんでいる人間を見ると僕の心も引き裂かれるような思いになるから。
そんな感受性を僕は持ってしまったから。


でも、この話を美談にするつもりなんてない。

なぜなら、これは全部自分のためだから。自分がこの世界を生きていくために必要だからやるだけ。

利他が回りに回って利己に帰するとかそういう美しい話でもない。

苦しみを緩くすることや溶かすこと、軽くすることは目的だけでなく、手段でもあるから。
その手段のさきにある目的、同時に僕にとって一番大事なこと、それは、
『まっさらな感受性をむき出しにして生きられる世界をみたい』

なぜなら、この時だけは、物心ついた時からずっと普通と思えない、絶望の中をさまよい続けている自分を肯定することができるのだから。光が届かない海の底にその時だけ綺麗な太陽の光が差し込むのだ。


学校で先生が黒板を向いている時だけに訪れる、この世界の全てが無下になるような感覚が僕は大好き。その瞬間だけは何をしても許されるような、世界から放り出されるような感覚。
友達と紙を丸めて野球をしてもいい、裸になってもいい、変な顔をしてもいい、ダンスをしてもいい、友達と死ぬほどふざけてもいい、もちろん、鉛筆を走らせてもいい。
うるさい大人がいい成績をとれとか、真面目に勉強しろとか、いい学校に進学しろとか、そんな社会と相対化されるクソな世界から僕を遠ざけてくれる。
その一瞬は僕が大嫌いな"普通""常識""当たり前"という言葉をも無下にしてくれる。

小学校の頃、習い事の水泳や翌日提出の漢字ドリルの宿題があるのに、
「なんか、そんなもんどうでもいいわ」
先生に怒られようが、お母さんに怒られようが、なんかどうでもいいわ、
友達と遊んでいるとき、そんな世界のことはどうでも良くなるような感覚に落ちる時がある。煩わしさが自分の脳から消え去る。

"なにがそんな素晴らしい世界に僕を連れて行ってくれるのだろうか。"


エチオピアに滞在していた時、日本円で4万円ほど騙され、盗られる出来事があった。
それ以来考えていた。
あれは誰が悪いのだろうか?誰が僕のお金を取ったのだろうか?

貧しい生活をしている彼が奪ったのだろうか?
それとも、
彼は誰かに奪わされた・・・のだろうか?奪わざるを得ない環境に身を置いていたのだろうか?

そんなことを考えていた時にこんな言葉を目にした。
「ただ、人には美しい瞬間と醜い瞬間があるだけ」市原悦子さんの言葉だ。

ストンと胸のつかえが取れた。彼は悪い人間というわけではないということだ。

ただ僕が目にしたのは、彼の醜い瞬間だけだ。
彼の奪うに至ったまでの時間や背景を僕は何も知らない。
もしかしたら、奪ったお金で数日ぶりの温かい食事を家族で「今日はご馳走だぞ!」なんていいながら、食卓を囲っているのかもしれない。

彼の人生をその一点だけ見つめて、判断するにはわからなすぎる。
その情報だけでは、彼の心の輪郭はおぼろげな状態でしか映らない。


ある日、友達が裏でこんなことを言ってたらしい。
「小松って何がしたいんかわからへん」

もうため息がでる。しかも、深くて黒いやつ。

僕たちは分かり合えるのだろうか?

僕がこの2年と半年で実感したことは、『多様性』という言葉の血が通った実践編だった。
僕たちは一人ひとり違うということ。100%分かり合えないということだ。

あのエチオピアでお金を奪った彼も、その行為の裏でどのような感情を孕んでいたなんかわからない。

コンビニで働くことで得られる感情を彼女と同じだけ理解することなんかできない。

そして、悲しいけど、僕がこのnoteをどんな感情で書いているか、そして、コロナや震災に直面した時にどれぐらいの悲しさを感じたのかなんてわかるわけない。

違いを分かり合えないということを理解した上で、想いを分かち合うことでやっとその人の心の輪郭や傷が明瞭になる。でも、その傷がどれだけの深さなのかは100%分からない。言葉という枠組みに収まらない感情を理解できるのはその人だけだ。

つまり、人間を否定することなんかできない、ということだ。

温泉でゴーグルをかけた少年がなぜゴーグルをかけていたかなんてわかるわけがない

もしかしたら、お父さんが忙しくて、休日もなかなか遊んであげれたない、けど、少し時間が空いたし、「よし海にいこう!」そう言って、連れてってあげたのがそこの温泉やったのかもしれない。子供は「いや、温泉やん」って気づいていたかもしれないけど、お父さんを悲しませないように、実際にプールに連れて行ってもらったように演じてあの少年は泳いでいたのかもしれない。

何もわからない。

でも、この国の多くの人は常識を信じている。だから、人間の点を見て正しいか正しくないかを簡単に判断する。「おかしいよ」という言葉が出てくる。

そして、僕はその否定してくる人間の全てを僕が否定することもできない。

だって僕もその人がその発言に至った、常識を信じるに至った経緯を何も知らないから。

その人の両親が小さい頃から常識を信じさせるような子育てをしたかもしれないし、彼の背中には「常識」という文字がタトゥーとして刻まれているのかもしれない、

そんな人間に「常識は正しいわけじゃないんだよ」なんて口が裂けても言えないし、言う資格すら持っていない。

人間が発する言葉や行為や選択の裏には必ず背景がある。
家庭環境や生まれ、学校、両親、その人の出逢いや人生で経験して来たこと、そして、その人は何が心に残っているか、何をどう感じたのか、どう受け取ったのか、どんな傷を受けたのか。
感受性を出発点として、たくさんの人生の軌跡を描いて生きている。人間には生きた時間分、何かが宿っている。

あぁ、そうか、感受性か。

一人ひとりが持っている。でも、一人ひとり違うもの。全く同じ形のものなんかこの世界に存在しないもの。

感受性には"普通""常識""当たり前"なんて言葉は存在しない。
そして、紛れもなく、絶対的に、美しいもの。

この世界から僕を連れ出してくれる、蜘蛛の糸のように天から降りてくる『感受性』、それが目の前に現れた時か。

感受性が形となって表出した時だけ、このクソな世界の全てを無下にした空間へと飛ばしてくれる。


『最適化』、『画一化』、『経済的に』、『効率的に』、『競争による分断』
資本主義や新自由主義、日本のお国柄はこれらの言葉を好む。

だから、この国は異端を敵視する。"普通""常識""当たり前"に忠実に、信じて、生きる人間を好む。

どうしても感受性というものは、ここからはこぼれ落ちてしまう。

でも、僕はそれを見るためだけに生きている。

インキャ、陽キャ、勝ち組、負け組、皮膚や目の色、職業、企業名、肩書き、役職、宗教、生まれた国、それを示すのは社会的な役割や属性であって、価値や感受性は与えられていない。

僕は人間の感受性がぜる場面を見たい。
なぜなら、美しさが永遠と瞬間を同時に刻むからだ。


又吉直樹さんの第153回芥川賞『火花』という小説で主人公の師匠が漫才のことをこう語っている。

「漫才は面白いことを想像できる人のものではなく、偽りのない純正の人間の姿を晒すもんやねん。つまりは賢い、には出来ひんくて、本物の阿呆と自分は真っ当であると信じている阿呆によってのみ実現できるもんやねん」

「つまりな、欲望に対してまっすぐに全力で生きなあかんねん。」


漫才とは人間。そのものだ。

ただただ、漫才を、僕は見たい。

でも、何かに抑圧されそうになったり、漫才ができる環境じゃなかったり、そういう世界で生きている人がいるならば、その人のために、僕はケータリングを用意し、舞台を設計し、演出をし、お客さんを入れ、前座をし、会場を温め、出囃子を鳴らす。

そんなところまでデザインする。

それがまっさらな感受性をむき出しにできる世界だ。

そして、"普通"と思えない僕を"普通"がない世界にその時だけ吹っ飛ばしてくれる。

(心配されそうなので書いておきます。今はデザインをしています。ここでは詳しく書かないので出会った時にでも聞いてください)


好きなことをしていこうとかやりたいことをやるとか、社会貢献をしないといけないとか、経済や社会や世間が唱えることに真っ当に清々しく生きていけとか、成功したやつが偉いとか、勝ち組になれとか、常識を信じないといけないとか、そんなん死ぬほどどうでもいい

俺は俺の正しいと思った、信じるものに向かって生きていく。
そして、それを否定できる人間はこの世にいない
なぜなら、一人ひとり違うんだから。

チキンライスを出囃子にして、苦しみでまみれた心を緩くする。
そして、美しさが瞬間と永遠の同時を刻む火花を、
暗くて恐い夜の世界に灯すように生きていく。

"普通"という名の色眼鏡を捨てて、自分が信じるゴーグルをかけて生きていく。
温泉で出会った少年にそんなことを教えてもらった。

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