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桜の樹の下には、

こんばんは。
数ある投稿の中から私のnoteを見つけていただきありがとうございます。
久しぶりの投稿でなんだか緊張してしまいますね。

今日は少し季節外れかもしれませんが、桜にまつわる話を書きました。
よければ最後まで読んでいってください。


「桜の樹の下には、死体が埋まっている」
なんとも不思議で、何やら事件の匂いがする、よく聞くこのフレーズ。
いつだったかはもう覚えてない、どこで読んだ小説だったか、そもそも小説の題名だったのか。

一つ覚えていることは、このフレーズを見た時に

「なんで死体が埋まっているんだろう?」

と疑問に思ったことだ。


「割に合わないから。」

そう答えを出したことも覚えている。
あくまで自分の中で。
答えなんて知らなかったし、今もよく知らない。

あんなにも美しく、綺麗に咲くのだから、ただ咲いてしまうのは割りに合わない、
何か代償のようなものがないと。

そう思ったのだ。


納得できる理由が欲しかったのだろう。
あの花が人々を魅了する理由が。
何もなしに咲いてしまうには、あまりにも味気がないから。
違う形で人々を惹きつける「何か」が欲しかったのだ。

とても自然だった。
人を惹きつけるには十分すぎる「それ」は、桜とお似合いだと思った。
自分にとってそれはしっくりきて、それ以降考えるのをやめた。


ここで言いたいのは、このフレーズの由来でも正解でもない。
人は理由を求めてしまうということであり、
理由を見つけると人は安心するということである。
例えその理由が間違っていたとしても、その人にとって納得できるものならば人は安心してしまうのだ。

死体が埋まっている理由を、
調べずに自分の世界で考えて、理解して、納得して、それで終わり。

それでいいのだ。
人は必ずしも正解が欲しいわけではない。
「正しさ」は重要ではないのだ。
あるとすれば、納得したことにたまたま「正しさ」が含まれていただけなのだ。
人は「納得する」という心地よさに身を委ねたくなってしまう生き物なのだ。

酩酊しながら外を歩いた時に、ふと綺麗な葉桜を見つけた。
桜の季節が終わる頃に、この出来事を思い出した。

かつて「正しさ」に固執していた自分が、「正しさ」ではなく、「納得する」という心地よさで物事を終わらせていたことに。
いつの間に「正しさ」以外の物差しで、物事を見れていたのだろうか。
そのことに気づき、少し嬉しさを覚えている。
「正しさ」で咲いていた桜は散って肥料になり、いつしか違う形となって咲いていたのだ。

「桜の樹の下には〇〇が埋まっている」
この文章を見た時に、あなたは何を当てはめるのだろうか。
あなたにとって「納得する」ものとはなんなのだろうか。

人によって違う解釈も、時には正しさのかけらもないような解釈も、
それもまた一つであり、間違いなんてどこにもないのだ。
誰もそれを否定することはできないし、ましてや馬鹿にすることなんかできない。
そんな詰まらない人にはなりたくない。
そんな詰まらない人生は送りたくない。


来年からは桜を見た時に、こんなことを思い出すのだろう。
それがまた肥料になり、自分の糧になっていく。
過去の自分は死んで肥料となり、今の自分を作っていくのだ。

だからこそ、
「桜の樹の下には死体が埋まっている」

今日はここまで。
拙い文でしたが、最後まで読んでくれてありがとうございます。
久しぶりにnoteを書きたい欲が出てきてしまい、気づいたらこんな時間です。
しかし、とても楽しく書くことができました。
また書きたくなったら書くので気まぐれに読んでいただければと思います。
それでは、これからもどうぞよしなに。

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