じめっとした「やさしさ」

こんばんは。
数ある投稿の中から、私のnoteを見つけていただきありがとうございます。
前回からすっかり間が空いてしまいましたね。
東京はすっかり残暑で、じめじめとした暑さから出かけるのが億劫な人もいるのではないでしょうか。

じめっとしていて、肌にまとわりつく、残暑の夜。

どこか自分と似ている、

そう思い、今日は筆を、
いや、正確にはキーボードを叩いています。

よければ最後まで読んでいってください。


「こまさんって優しい人だよね」

 私は時折周りからこのようなことを言われる。
 しかし、私はこの言葉に違和感を覚える。
「自分は優しい人なのだろうか?」
「少なくとも、この「優しい」が持つ一般的な意味には、自分は当てはまらないのではないか?」

 私と関わりがある人からすると周知の事実かもしれないが、
私は八方美人であり、誰に対しても平等で公平に接するようにしている。
 昔から、仲間外れやいじめ、人を見下す、馬鹿にする、偉そうにするetc…
上記のようなことがとにかく嫌いだからだ。
 この嫌悪は、昔よりも肥大化した状態で今も持ち続けているのだが、この話は別の機会に改めて認めることにする。

閑話休題。

『優しさ』には種類があると思っている。

相手に寄り添うのも優しさ、
相手を叱るのも優しさ、
相手を慰めるのも優しさ、
相手を見守るのも優しさ…

様々な行動が『優しさ』になり得る一方で、
時としてそれは『優しさ』ではなくなってしまう。
あくまで『優しさ』は、受け取る相手がいてはじめて確定するものであり、
とても曖昧で揺蕩うものなのだ。

私の行動を敢えて『優しさ』と仮定するならば、
私の『優しさ』は『現状維持』である。
例えるなら、目の前に貧しい人がいたとして、
私はその人に魚を与えるわけではなく、
魚の釣り方を教えるのでもなく、
ただ、『貧しい』という気持ちに寄り添う。
それが私の『優しさ』なのだ。

これは果たして『優しさ』なのだろうか?

教育の現場でもよく耳にするこのケーススタディでは、私の『優しさ』は論外である。
なぜなら、現状に変化を生み出さないからだ。
貧しさを抑えるわけでも、貧しさから脱出させる方法を教えるわけでもない。


私は『変化』を恐れている。
もっと言うと、自分が『相手の人生に介入してしまう』ことを恐れている。
相手の人生にとって、自分が重要な存在でも、ターニングポイントにもなりたくはない。
変化によるメリットとデメリットを天秤にかけたときに、考えてしまう。

「自分は相手に十分なメリットを与えられないのではないか、むしろデメリットを残してしまうのではないか」

そう考えると、相手を『変化』させることに臆してしまう。
本当は魚を与えた方がいい、
魚の釣り方を教えた方がいい。
気持ちではわかっていても行動には移せない。
それでも、見捨てることはできない。
そんな『偽善』から生まれた『行動』が、私の『優しさ』なのだ。

恐らく『真の優しさ』とは、変化によるデメリットを考えた上で、相手のために行動できることだろう。
目先の労力や辛さだけでなく、その先まで見据えた上で相手のために最善の行動をとることが『真の優しさ』なのだろう。

私には到底できそうもない。
必ず良い変化になるとは保証できないから、その行動を取ることはできない。
私はその責任を取ることはできない。
私はそれほどの立派で晴れやかな覚悟を持ち合わせていない。
私が持ち合わせているのは、じめっとした『偽善』だけ。

だから私は『優しい』人ではない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?