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地元だった球団への歪んだ片思い

阪神タイガース・藤川球児投手、プロとしての選手生活お疲れさまでした。
通算250セーブ不達成について悔しく思うこともありますが、盛大な引退行脚の中での晴れやかな顔を拝見し、「これでいいんだ」とも思うようになりました。

このような重い決断をできた理由、あれほど華々しい引退セレモニーとなった理由は、藤川投手自身が誰よりも阪神タイガースのことを考え、大切にしてきたからなのではないかと思います。

そんな藤川投手の姿勢に憧れ、阪神ファンを続けていた私が、阪神ファンとしては一旦区切りとけじめをつけたいと思い、今回筆を執るに至りました。

以降、非常に愚直で身勝手な自分語りが含まれます

私が幼少期を過ごした兵庫県西宮市

私は「富山県出身」としているが、実際には親の仕事と出産の都合で、小学校低学年までに富山→福井→兵庫→富山→兵庫→富山を転々としている。
転勤族というと言い過ぎなのだが、実際これだけでも説明が面倒なので、「要は転勤族なんだよね」で切り上げる学生時代を過ごした。
その後大学は茨城、就職で上京。県内移動を含めれば、今までに10度の引っ越しを経験している。

このうち、幼稚園〜小学校低学年にかけて住んでいたのが、兵庫県西宮市。
富山でよそ者気分を味わう中、中学生くらいまでは「自分は兵庫県出身」の認識でいた。
富山は周囲に比べて詳しくない、福井時代は幼すぎて記憶がない。
兵庫はまずお笑いの文化があって、普通に暮らしているだけでボケやら、ツッコミやら、廉価なたこ焼きやら、色々染み付いて・・・
当時は「周囲と違う」ことに快感を見出していたので、必要以上に兵庫に傾倒していった。

野球を知り、ダメ虎を知り、猛虎の威を借る

そんな中、小学校中学年のころから野球遊びをするようになり、プロ野球、ひいては阪神タイガースという元・地元の球団が気にかかるようになった。

オールスター・日本シリーズを欠かさず見る程度には野球が好きな両親であったが、特段贔屓球団がなかったので、自分についてはどこを応援しろとか、強要されない立場であった。
そうなると、「お前どこファンなの?」の問いに対する理由と回答を自分で見つけないといけなくなり、前述の兵庫への傾倒から、阪神に辿り着くのは必然だった。
振り返れば当時は「縦縞のお荷物球団を応援する関西弁のキャラクター」も各種創作に多く、自分のキャラ立てにつながると思っていたのかもしれない。

中学校に入り、部活の代わりに野球遊びはリタイアしたが、プロ野球の話をするような友人は何人かいて、相変わらず野球とは接点があった。
この頃から阪神は野村監督による明るいニュースが増えてきて、必然的に阪神デッキ (阪神の話題の引き出し) は充実。ろくでもない人間関係に揉まれた中学生活だったが、話の通じる人たちとは阪神デッキで楽しんでいた。

そして2003年。筆者中学3年生の時。
星野監督2年目の阪神は冗談みたいに連打するチームとなり、ぶっちぎりでリーグ優勝を果たした。
序盤に5点取られたら、中盤までに8点取り返して勝つような訳のわからないチーム。甲子園球場のフェンスに広告を出していたポッキーが、その年のポッキーのところに飛んだ長打をまとめたCMが流れるほどだった。

阪神デッキも連日盛り上がり、「強いチームを応援すると楽しいが、暗黒時代を耐えて強くなったチームを応援するのはその何倍も楽しい」という、ある種の成功体験を経験した。
無論今後も阪神を応援していこうとなったのであった。この頃は。

なお、平成の3連発がちょうど修学旅行中で、スポーツ新聞を買いに行きたくても買いに行けなかったことも強烈に覚えている。

猛虎に生まれた生え抜きの守護神

2005年には岡田監督のもと、全く異なる強みでリーグ優勝を果たす。
ジェフ・ウィリアムス投手、藤川投手、久保田智之投手の「JFK」が中心となる、救援陣をつぎ込んで最小リードの試合を落とさない戦略。
8回どころか7回の投手も極力固定という、それまでなかなかなかった戦略が実現し、他チームへ波及。中継ぎ投手の評価、あるいは短いイニングでも登板数が増えれば消耗するという議論にもつながった。

藤川投手は2004年後半、フォーム改造と中継ぎ転向が功を奏して一軍定着。「火の玉」の二つ名がつくような回転数の多いストレートを習得し、磨きをかけていった。

2006年6月からはJFKの中でも抑え担当になり、2012年末のメジャー挑戦まで抑えの座を守り抜いた。

「西宮の野球選手」を超えての尊敬

私としては、フォーム改造以前は苦汁を味わっていた藤川投手を
・金本選手や伊良部投手のような、鳴り物入りの選手
・新庄選手のような、 (阪神在籍時のメディア的には) スター性先行の選手
とは違った人 (失礼) と捉えており、
そんな選手が、チームが勝てるように、チームがより良く認識されるように、真剣に考え、プレーし、マスコミ対応を行っていることに尊敬を覚えた。

個人的に、上記は生え抜き信仰とは別のものと認識している。
あくまでも藤川投手個人に対する尊敬。
某引退試合の映像も、自分から見に行くことは未だにない。

メジャー挑戦時、独立リーグ挑戦時もその尊敬の念はやまなかった。

兵庫からの自立

藤川投手が阪神に復帰した2016年。
本人・チームの意向により先発投手に再挑戦後、救援陣が手薄となったタイミングで中継ぎ復帰。その後のシーズンで抑えに再定着し、日米通算で243セーブまで積み上げた。

そんな中、私といえば・・・
藤川投手への尊敬は続いていたものの、阪神球団への熱意は薄らぎ始めていた。

関東に移住して今年で14年目となり、兵庫での在住期間はゆうに超えてしまった。関西弁・富山弁はふとした瞬間にしか出なくなり、わざわざ兵庫をアピールする理由もなくなってしまった。
また、本来の故郷である富山について元々詳しくないとしていたが、それは生え抜きの富山県民と比べているからであって、そもそも富山のトの字も出てこない関東での生活では不要だった。

一方で阪神球団もチーム戦略が空回りし、最終的には「藤川投手のセーブが見たいから勝ってくれ」という、歪んだ感情で見るようになってしまった。
「暗黒時代を耐えて強くなったチームを応援するのはその何倍も楽しい」という原点が、大人になってフロント事情を理解したことで、塗り潰されてしまった。

今年に入ってから阪神関連のモヤモヤが心に湧き、言語化したのが上記の通り。
「自分は今や阪神ファンではなく、藤川投手個人のファンなんだ」と整理するに至った。

そして、このまま間違いなく薄らぎ続ける熱意の中で、阪神ファンを名乗るのは失礼であり、精神的にも続かないと思った。

そのため、藤川投手の引退を機に、どの球団のファンであるかについて、一旦白紙にしようと決めた。
恐らく、ここまでお読みいただいた方に「なんだこいつ」と不快に思われているのではないかと考えていますが、そのような歪んだ片思いをして、一方的に失恋しているのが、他ならない現在の私。偽らざる心境です。

恩を恩として返せる人間になりたい

すごく身勝手な論理をここまで書いてきて、別にファンを辞めるのも勝手に辞めとけという話なのですが。
私が藤川投手を尊敬する理由の一つに、過去に恩義のあった土地 (高知・兵庫) に対して最大限の恩義を尽くしていることも含まれていると、本記事を書いていて気づきました。

これまでの自分は、金銭面はもちろん、その他の行動面でも、富山や兵庫に恩義を尽くしたとは思えません。
富山や兵庫の良さを理解し始めている今、これらの土地を不当に腐さず、どうしたら恩義を還元できるか、考えていくべきなのではないかと思いました。
土地だけでなく、両親、親友、母校までも含まれてくるか。

今は、若者が夢を持つことが少ない時代だと言われますが、自分自身が夢を持たなくて、どうして人に夢を与えることができるでしょう。 
ーー藤川球児 (中学3年時)

「球児」という重い名前を授かったからこそ、若くしてここまで考えたのだろうという推察はありますが。
私ももういい大人なのだから、ちゃんとしていこうと思います。

改めて藤川球児投手、お疲れさまでした。

私信
いつか西宮市を旅行し、みやこ商店街の富士スーパーマーケット・とらやを再訪したいと思っていたのですが、近年閉店したと知り後悔しています。

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