「マルコはかなしい―渡邉浩一郎のアンチ・クライマックス音群」リリースに寄せて

渡邉浩一郎(  1959.4.5〜1990.8.12)の「まとめてアバヨを云わせてもらうぜ」に続く1977年と1980年代前半の未発表音源が今回2枚組CDでリリースされることになりました。そこで生前浩一郎と仲のよかった工藤冬里氏に、私から、何か書き物を頂けませんか、とお願いしたところ、快くお引き受け頂き、しばらくして「1990」というタイトルの文章と写真が送られてきました。内容は浩一郎が亡くなる直前に房総半島を家族と旅行して回った時の思い出とアルバムでした。

浩一郎は記録魔・写真魔で、いつも友人の写真をカメラで撮影していました。当時はスマホ等無かったので、その場に誰かカメラ好きがいなければ記録が残ることも難しかったのです。

浩一郎が撮った多くの写真、そして彼自身が写っている写真としても、おそらく最後のものかもしれません。

工藤さんに頂いた文章と写真をそのまま下記に掲載致します。

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1990

8月になり、放っておくとすぐ飛び降りようとするので家族ごと外房へ行くことにした。いちど飛び降りようとした時はお父さんが下からどこそこの鰻を食べに行こうと呼びかけると降りてきたそうだ。不毛を避けようとしてそれはトートロジーだ!と吐き捨てるのは自動律の不快というやつで、ブライアン・ウィルソンが最初の奥さんのために編曲したSpringというアルバムが安定剤代わりだった。アクセルの踏み込みが蒲団のようで、脳髄が真綿で締め付けられるような気がした。九十九里に近づき、箱乗りしてバットを持った若者たちを見ると気分が上がってきて、サーフィンとホットロッドの違いをどう聞き分けるかだの、車体に木目のラインが入ったクラウンのルーツがゼロヨンの巨大な改造エンジンにあることなどの説明に入った。見事に改造してロングボードを乗せたピックアップトラックが方向指示器を一回だけ点滅させて車線変更するのを見て、きっと長い髪の彼女が乗っているに違いない、と言い、信号待ちで確かめて、やっぱりかわいいじゃん、と上機嫌になったのを礼子が窘めた。初めて見る外房は、大きな波が黄色く盛り上がっていて、太平洋はやはり恐ろしいなと思った。大腿部に原因不明の孔が開き、そこから絶え間なくくすりの毒が流れ出ていた。松葉杖を使わないと歩けなかったが、綱吉屋という民宿に着いて一番搾りを飲み、花火などするうちに、歩ける気になってきた、と言って立ってみせたりした。良くなってきていたのだ。翌日さらに南下した。「シカサル山ヒルを駆除し住みよい町づくりを!!日本共産党」という看板があって可笑しかった。内房に回ると波は静かだった。明鐘岬の、マイナーの佐藤さんに教えてもらった岬という喫茶店に寄った。ボサノヴァがかかっていた。オーナーは元は吉祥寺に居た人で、そこから富士を撮るのが日課だと言う。三浦半島を臨む岩場の写真を撮った。それがReturn Visit to Rock Massのジャケットになった。フェリーで対岸の久里浜に渡り、環七を上って豊玉の部屋に送っていった。独りにさせるのはしばらくぶりだった。Midheaven mail orderから、異様に細分化したサイケのジャンル別の注文票に従って、もろサタニズムのジャケのLPが郵便受けに届いているのを開封して得意気に見せてくれた。黙っていると、何?と言った。一瞬見つめ合った。いや、なんでもない。じゃあ。閉めるよ

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冬里さんからはこんな説明もありました。

「これらはすぐにアルバムにして送られてきたものなのですが、さて旅の始まり始まりーなどと書いてあって、非常に純朴です。最後に空の写真があって、

カモメさん さようならァー

と書いてありました 」

「じゃあ閉めるよ、というのが生前聞いた最後の言葉です」

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(完)

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