今日行ったライブ。豊住芳三郎ds×照内央晴pf Duo @渋谷公園通りクラシックス


先日抜いた親知らずの痕がちょっと腫れて膿んでいるみたいで、ひとに会う約束をしていたが、キャンセルしてもらった。本当はこの日会って一緒に歌ったり音を出したかった人なので、残念で、家にしばらくいたのだけれども、だんだん家にいるのがつまらなくなってきた。歌うと顎を動かすので、やはり痛いのだが、ひとのライブを観るくらいならよかろう、と勝手に結論づけて、猫を留守番に外出。リハであきらめていたライブがあったのだ。

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「Creative Imrovisation Part9 豊住芳三郎ds×照内央晴pf Duo @渋谷公園通りクラシックス(写真は宮部勝之さん撮影)

いつものクラシックスのように、舞台左手にピアノ、右手にドラムセット。なんの変哲もない、バスドラ、スネア、タムがひとつ、シンバルがふたつ、ハイハット。…しかしここで魔法が起きる。

二人とも、とても細やかなセンスで演奏に入る。無駄な音がひとつもない。直観で瞬時に考え抜かれた必然を感じる。既知の旋律やリズムもまったく無いが、わたしは、砂浜をひとり歩く、異形の獣の風貌を纏った人間の姿を思い浮かべた。映像までも産み出す、映像不要の映画音楽のようである。

徐々に音数は増えていき、音圧が増す。ハイハットを上からも叩くが、下からも叩く。上からの音が黒であれば、下からの音は群青色。当たり前だが音色は違う。すべての音具を支えるスタンドも、豊住さんにとっては楽器。そうだ、ブロッコリーだって椎茸だって軸が美味しいじゃない、などと食べ物のことを連想するわたし。

豊住さんは、ドラムを叩いているとゆうよりは、ドラムに叩かせている、という気がした。叩いて相手に音を出させるのではない。ドラムがヒットを望み、ヒットを契機として、ドラムが自分の出したい音を出しているのだ。それほど、気負いがなく無駄な力も抜けていて、人間個人の思惑を越えた音の生物構造が俯瞰されるよう。広がる宇宙、飛翔するドラム、弾ける身体、それらがひとつになっている。

叩いている姿をじっと見ていると、腰のあたりの重心がものすごく安定しているのだ。ドラムのあらゆるところを、いろんな姿勢で、極端な強弱をつけて叩いているので、普通の人ならひっくりかえったり、バランスを崩してもおかしくないのだが、音に連動して、豊住さんの体も、均衡をけっして失わない。

一方照内さんは、音域が重ならないよう注意を払いながら、しかし敢えて音をぶつける時には、自分のピアノの方のエッジを強くしてはっきりと前に出る、時には豊住さんの肩に乗って手を広げるようなこともやってのける。

驚いたのは、照内さんのピアノのペダル使いの技である。多いときには、大袈裟でなく、1秒に5回くらい、ペダルを踏みかえているのだ。あんな技はわたしがやったら30秒くらいで足が動かなくなってしまう。地道な活動を続ける照内さんの、日ごろの鍛錬を見る思いがした。

不協和音の連続速弾きの間も、この絶妙なペダル使いで音がモコモコしないように、なおかつ、まとまって聞こえるようにしているのかなと思った。

お客さんはみんな、もちろん、豊住さんの演奏を充分に楽しみ、味わっているのだが、展開を誘導し流れをつけているのは照内さんだった。リズム感の重ね刷りが素晴らしい。同じリズムを刻んでいるのではないのに、色あいの似たリズムや、相性のいいリズムを対峙させて、全体をまとめている。しかも、このクラシックスとゆう場所は、ハコ自体がひとつの楽器なのだ。各アーティストを抱擁し高らかに響かせる、もうひとつの大きな楽器。

しかし、もしも、いいかげんなまずい音を出してしまうと、ますます醜さを露わにされてしまうかもしれない恐ろしい場所でもある。ごまかしや言い逃れがきかない。

前半の終わりくらい、聴いているうちに何か自分の涙腺が震えるような奇妙な感動が押し寄せた。音楽の共通言語となるようなわかりやすい旋律はひとつもないので、悲しいわけでもないし、嬉しいわけでもない。しかし心の高揚をおさえきれない感覚が、涙腺に響いてくる。喜怒哀楽の感情がないのに気持ちが昂る、というのは初めてかもしれないと思った。

前半が終わった頃には、いや、これで私の新年は、ひとより10日くらい早くもう開けた、と思った。この感動は、まさに心の謹賀新年、と清々しい気持ちになったのである。

15分の休憩の後、後半。豊住さんが、二胡を弾きながらドラムも奏する。この二つの楽器の間に隔たりはほとんどなく、豊住さんの音として、豊住さんの肉体も含めたひとつの楽器、 宇宙、ドラム、身体。

照内さんの眼鏡が2回吹っ飛ぶ。スポーツ用の飛ばないやつ、プレゼントしたい、などつい余計なことを考えるが、吹っ飛ぶのもまた一興。なんだかステージのアクセントみたいでほほえましかった。あの眼鏡、毎回ふっとんでいるのだろうか、それとも今回は特別?などと愚かな私は詮索が止まらない。

終演。名残惜しい、という感じはしない。むしろ、充分に堪能できたと感じさせるすごさ。若いとつい、勝手にさっさと盛り上がって一気呵成に終わることも多いが、熟練の匠は、そのへんのエンディングへの持って行き方が絶妙なのである。さすがだなあ。

繰り返すようだが、何の変哲もないドラムセット。特に変わったことをするわけでもない。でも、世の中のドラマーは、スネアを、手で、ちゃんと叩いてみたこと、あるだろうか?豊住さんみたいに、手でコンガみたいに叩いて、手首と肘を使ってクイッとミュートしたり、そんなことやってみたこと、あるだろうか?それでもちゃんと、いい音がすること、知っているだろうか?きゅきゅきゅぅ~と太鼓の革をこすって可愛いらしい音を出したりしたこと、あるだろうか?スタンドを叩いたり、ハイハットを裏から叩いたことは?

そして、それらは、やってみた、というレベルではなく、通常の叩き方で出る音と、対等に扱われ、対等に快活に鳴り響き、軽んじられることはないのである。奇矯な行為に及ばずとも、逸脱せずとも、足元に自由と豊穣はあった。

あの場にいたお客さんは、きっと私と同じ、一足早い心の新年を迎えたに違いないと思った。

よいものを聴かせて頂き、ありがとうございました。

黒天紀 小山景子


追記
まったくの蛇足なんだけれども、わたしが初めて豊住さんを観たときのチラシ見つかったので添付します。
1983年2月に、東京から、地上に蠢く連中が行った京都ツアー(ほうぼう→マントヒヒ→ディービーズ)。わたし21歳。

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