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優しさについて

優しさ、って、いったい何だろう。
わからない。

優しい心があれば、それでいい。
本当だろうか。
届かない優しさは、優しさと呼べるだろうか。

「優しさ」と優しい心は、
似ているようで、全然違うと、いまは思う。
優しさには、方法が必要だ。
まごころには、込め方がある。
心が物や行動に変換されて、相手の必要を充たす。
それができてはじめて、優しい心は「優しさ」になる。
次第にそう思うようになっていった。
いつからだろうか。

心だけでは、笑えるくらいに無力な時ばかりある。
必要と全く見当違いをしていると、
そう思えてならないことばかりある。

凍えた身体が受け容れるのは、心を込めた言葉より、一枚の毛布ではないか。暖かいスープではないか。
言葉は、食って腹が膨れるわけでもなければ、暖かくもない。
そんなとき、どうすればいい。
言葉しかあげられるもののないときには、いったい?

必要なものを、必要な時に、必要な形で、必要なだけ。
それでいいのではないかとさえ思う。
まごころと限りなく近似した効果を作り出せば、―そしてそれがまごころそのものだというスタンスさえ崩さなければ、
誰にも判らないだろう。
心なんて、他のものに写取られない限り見えないのだから。

受け取る側のことも考えていなければ、
書いたことについての論証も碌にしていない、ただ書き殴っただけの、搾りかすのようなものだ、こんなものは。
それでも、胸がきしむから、きっと何かあるんだとも、思う。

優しくありたい。

「-いま自分が何をやっているかも、わからないのに?」

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