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【時代を超えても】~切支丹を思い巡らして~



現代において
こんなにも情報に溢れた環境に 
置かれている私達は


なんて恵まれているのかと思います。


コロナ禍に覆われて様々な分野で
更に加速していった
ネットの世界。

インターネットに疎い私でも
そんな状況を目の当たりにしています。


もともとオンラインで
礼拝をしておりましたが

これが当たり前の様な日常に


ふと思う事があります。

それは

多くの有名な人々が口にしていた事を
じわじわと
実感するようになりました。



それは確実に過去の自分から見ても
オンラインで多くの
教会の礼拝メッセージや学びと 

また
多くの情報を得られる様になった事で
知らなかった存在を
知ることとなったのです。


今までは
地域限定でメッセージを
聴くしかありませんでしたが

それが
今では




一斉にすべての情報が
まるで店頭に並んだ書物のようです。

まるで
果実のようです…。


書物なら頁を開いて
内容が解りますし


果実は
カットして試食出来るようにも
なっているのです。



私がこう語っている以上に
日本の情報は

AIや機械学習については
遅れているのだとか…。


AIの最先端企業というと

Google、Amazon、Facebook
Apple 等と言いますが 


私は本当に
テクノロジーに関しては
全く解りません。

ですが
学びたいものが
ある程度ならば
検索する事で

問題の写真を撮影するなら
自然と数式を解いてくれます。

便利なアプリもある事を
知る事も出来きることもあれば

Instagramなどの様な美しい写真を
眺めたりして

SNSも沢山楽しめて
こんなにも表現豊かに
自由になって嬉しく思う反面

私は

ふと

ある事を思ったのです。

それは
先程にもお伝えした様に
全ての分野  業界では

この世の
言葉にするなら

一斉にクオリティ-が豊富に
あからさまになるということです。


と言うことは



多くの
教会の礼拝や学びのメッセージが
溢れているということです。

それは
十字架の購いをまだ知らない人にとっても
専門的に聖書を知りたい人々にも

クリスチャンではない人へと
教会とはどういうところか…

どんなメッセージを礼拝で語っているのか…が

あからさまになるわけですから
福音を宣べ伝えるのには
感謝な事ではあります。


喜ばしい事でもあります。


ですが

あからさまに…という言葉の通りに
微妙な無意識なるデメリットも
あるわけです。


それは人間的な視野でみたならば 
無意識な感覚的なものとしてという表現で良いのでしょうか…


良いとか悪いとかは置いといて


前提を履き違えたものならば


からだの各器官であるがゆえに
違いを知り
良いも悪いも

人というのは

比較というものを
してしまう人々もいるのでは
ないでしょうか。


確かに
それも良い視点からモノゴトを
捉えていくならば

ブランディングや
マーケティングとか

この世ではそう言葉にありますが
それは自然と

神様に喜んでいるならば


常に神と人への思いやりを
みことばにおいて行うならば

きっとどうであれ
成り立っていくのだと思います。


それは
目立つものでもなく
地道な信仰ではありますでしょうが

みことばが言うように

いつまでも残るものに
あるのではないてしょうか…。









私は霊的な教会
聖霊を信じる者であります。


日本の一般的な
スピリチュアルな概念とは
また異なるのは

聖書の聖霊を中心として視点を置く
立ち位置にいます。


その様な中であるひとつの事を
思わされました。


それは
ひとつの映画のワンシーンです。


あの遠藤周作の名作
【沈黙~サイレンス~】の
映画の舞台にもなった江戸初期の長崎。

そこには
隠れ切支丹がいたわけです。


切支丹弾圧に遭いながらも
信仰を捨てることなく
祈り続ける姿

私も
映画館の
スクリーンで観ました。



話を戻しますと
その頃の時代には
情報は多くはありませんでした。

きっとその時代の人が
私達の未来を見るならば

何が起きているのか
把握するまでに幾日も費やすほどに
混乱する事でしょう。



文明の発展を遂げ
世界はみるみるうちに
移り変わっていったわけですが


当時の
隠れ切支丹の人達には
多くの情報どころか


隠れていたが為に
仲間がどのように在るのかさえも
不明だったかと思われます。


緊迫した時間
孤独に置かれた状況だった事でしょう。





なのに何故

その時代の切支丹たちは
仲間だけがわかる印によっての
ロザリオを握りしめて

神を見上げ

信仰を我が命と引き換えにしても

捨てなかったのでしょうか…。



それは

神の愛に触れたからです。

みことばに触れたからです。


生きた聖霊に触れたからです。



ある意味

情報がなかった頃のほうが


信仰も
強く根差していたのかもしれないと
思わされる程です…。


子ども大人も
耳をそぎ落とされ

はりつけにされた時代。







私達は

感謝な時代に生きています。




それで
伝えたかった事ですが


私はオフィスで
オンラインの仕事をしておりますが


オンラインと
実際リアルに体感する空気とは

ほぼ同じではあるとは言っても

それでも完全同じでは
ないという事をも知っています。


この時代に
どのような空間にも生きていられて
感謝しています。


私は
多くの情報とテクノロジーを
否定してるのではなく


聖霊と

時空を越える
この光のような
速さ

ネットの世界という存在が
重なって来るのです。





そんな感謝な時代

私達はハイテクな時代に生きていても

忘れてはいけないことがあるのだと
気がつかされたのです。



それは


信仰と


希望 と 愛です。


その中で

隠れ切支丹たちの慰めや力となったのは


魂をも
掴んで離さなかったのは
やはり
神の愛でしょう…。


知ってしまった
神の愛でしょう…。



窪塚洋介演じる

キチジローの様に
私も臆病であり
ましてや
踏み絵を踏む事の意味が理解できません。


(今では絵踏みと言いますね。)


しかし

私も

キチジローの様に

最終的には


信仰を捨てることなど

出来ないのです…。

何故なら
今もなお 生きておられる

神様の愛を知ったからです…。



それを知った人達は

情報がなかった

あの
隠れ切支丹の人達だったのでは
ないでしょうか。




聖書を詳しく
分析して学ぶことさえも

多くの知識さえも
学ぶことさえ出来なかったのです。

たったわずかでありましょう

今に比べたなら
少しの情報だけです。


お聞きした言葉の
教えだけに


突き動かされて
信仰を守り貫いていたわけです。


それはもう


神の愛としか言えないのでは
ないでしょうか…。


マインドコントロールでもなく
飾りでもない…。



それはまさしく
神の愛…。



私は
この時代に手探りで
再び思い巡らすのです。



ザワザワした
この現代に生きながら



彼ら彼女らと同じ

あまりにも碧い海を眺めては



その信仰に
ただ  ただ

何も言えず


胸が熱くなるのでした…。









~ブルーグレィの教会で~






 













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