「共感」はするだけ無駄?

20230408
(元のURL:https://www.dtto.com/f/jp_daily/p/241699749?ref=ios )

「共感して何か問題が解決されるならいいけど、そうじゃないならしても仕方ない。」

ものすごい衝撃を受けました。
前後の文脈がないと誤解されてしまいそうなので一応説明すると、ソリューションは求めてなくて、ただ共感してくれればそれでいいんだよね〜…みたいな流れで、上のように言われるに至った。(だいぶうろ覚えだけど)

(前置きしておくと、今日の話は賛否両論あるし、オチもうまいこと落ちてるか分からないです。たぶんまだ自分なりに消化している最中なので、大目に見てやってください…)

今振り返れば、「問題解決」と「共感」をなぜ二項対立として私は並べたんだろうとも感じるし、今や尋ねるとしても大分時間が経っているこの発言に、どうしてここまで引っ掛かっているんだろうとも感じる🤔

多分、自分の中で大きな軸が揺らいだからなのだと思う。カウンセリングによる対人療法だけでなく、人間関係の構築においても「傾聴能力」というのはものすごく重要で。そして、「傾聴」するには「共感的理解」が前提となる。2年間の学科の内容でそう学んできました。なので冒頭の意見は、自分の信念に対するアンチテーゼに初めてぶつかったときでもありました。

なのでここ最近ずっと、私のテーマは「共感」。

そんなふうに過ごしていたので、男友達と飲みに行った時もこの話題に触れることになりました。
そしたらなんと、友だちも

「あぁ、共感なんてしても仕方ないね。」

というので。😦
さらに衝撃を受けました。
だって彼は、「それは大変だったね」とか「よく頑張ったよ」とか、少なくとも私の前では「共感」の伴った言葉選びをしているように見えていたのです。

流石にこの時は、
「どうしてそう思うの?私は、寄り添うことで救えるものもあると思うんだけどな」
と尋ねました。

お互いお酒に強いので、アルコールは入っているものの以下かなり有用な議論(?)が始まりました。

彼がいうには、
基本的にそれぞれが別人格を持った個体なので、完全な理解は不可能であり、それを踏まえて「相手がなにを考え、感じているか」は考えるだけ無駄である、とのこと。
これにはある意味納得しました。私たちが抱えてるバックグラウンドは、似ている箇所はあっても実際は全くの別もの。考えても分からないことのほうが多いだろうし、究極は本人の口から聞くしかない。

この時点で「共感不要」を唱えるのが2人とも男性だったので、危うく偏ったステレオタイプを形成しそうになったけれど、さらに話を掘り下げてみると、だんだん「個人差」の範疇へ収まっていきました。

その時、キーワードになったのが「外交」でした。

政治の話を例えによく引っ張り出してくる友人だったので、彼はこの「共感不要論」を「外交における利益と消費するリソースの配分」に例えて話してくれました。私は政治に疎いので、適切な言葉選びができてるかは分からないけど、確かこんな感じ。

「外交は、自国の利益を守りつつ、相手国へ求めるものを得る必要があるよね。もちろん譲歩は必要だけど、できることなら自国の利益は損失ゼロに留めたいよね。同じ目線に立って考えるにはそれなりにリソースを使うし、人に対して想像力を働かせて共に感じ入ることそのものにメリットを感じられないのなら、尚更、リソースを割きたくない場合が考えられる。外交みたいに死守しなければならない何かがある場面においては、「貴国のためなら!」と何でもかんでもすると、自国には損失だらけになるかもしれないよね。」

あくまで"かもしれない"という空論にすぎないという前提で、共感が不要であると考える人にはそんな背景があるのかもしれないね、と。

「けれど、それによって得られる利益って多分、自分が失った分くらいしか手に入らない可能性もあって。全く一つも譲らなければ、なに一つ手に入らない可能性もある。パーソナルな関係においては、その時点ではさしてメリットがなかったとしても、長い目で見ると吉と出るのかもしれないよね。」

なるほど。その考え方でいくと、私は後者にかなり近い考え方をしてる気がする。し、なんだかんだ彼も後者のような振る舞いをしている気がする。

その人は前者だったのかもしれないよね〜。だとしても、どうしてそういう考えをするに至ったんだろうね〜。
…と、こんな感じで最後はその場じゃ答えの出ない問題にぶち当たった(笑)。(これ以上はそう考える本人のみぞ知る)
総括としては、
「結局は、バランスの問題よね。どちらの方がいいとかではなく、場面によってはどちらもいい選択になる。」
となった。

それに、お開きにして家に帰るまでの間に私は、「結局のところその人は、『 私 に 対 し て 共感することは無駄だ』と言いたかっただけなのかもしれない」とも思った。というのも当時私は、自分を苦しめてる問題の解決を完全に諦めてる節があったので、最初から諦めてるやつに対してするそれは「共感」ではなく「同情」だったのかもしれない。

最初は共感しても無駄と言っていた友だちも、「共感」について深掘りしていく中でこんな風に言い改めていた。

「共感はするけど、同情はしない。」

あれ?
じゃあ、あの時私が求めてた「共感」って、そもそも「共感」じゃなかったのかもしれない。
そんな風にも感じた。

パートナーシップ、ひいては職場の人間関係にも共感は大切なんだろうけど、「同情」は確かになにも生まないよな。
もしかして、私は「共感してほしい」と言いながらも、実際は全然違うことを求めてたのかもしれない。

ここまでくると、「共感」ってなんなんだろうと、ゲシュタルト崩壊(笑)。これ以上の深掘りはあんまり意味ないなと感じ、シフトチェンジすることにしました。

おそらく、「共感しあうだけ」のコミュニケーションは、脆弱で薄っぺらいし、生産的じゃないことも多い。これはこれでアリだけども、もっといろんな手段があっていいはずだよね。
それに共感が重視されるのは「傾聴」、つまりは聞くシーンであって、私は自分が「傾聴には長けている」とあぐらをかいたばかりに、相手にも同じレベルの傾聴を無意識に求めていたのかもしれない。
そんなことよりも多分私に必要なのは、もっと自分を表現するやり方(共感する以外の関わり方)を充実させるとか、自己主張を恐れないメンタルを持つとか。そっちの方なんじゃないかなぁ。
「共感不要論」は結果として、「自己主張」が苦手という私の短所に気づくことになった。

後日、私が「共感的理解が大事なんだ!!」と思うに至った、傾聴に関する本を読み返した。
すると、あとがきに。

<「傾聴できないことはいけないことだ」「すべての人は共感的に耳を傾けてるべきだ」とは"決して思わない">と著者。

どうやら私は危うく「共感ババア」になりそうだったらしい🥶
ものすごく自分の視野を狭めていたような気がした。

就活に夢中になる頃には、このテーマに私なりの答えが出ているのかもしれないし、
「この頃の私、こんなこと考えてたのか。暇すぎないか…?」と感じるくらい忘れ去っているのかもしれない。

結構長らく自分の中のテーマだったけれど、こうして整理してみると、
「当時の私については、共感するだけ無駄」だっただけというのが1番腑に落ちる(笑)。そして、「共感の必要性を考えるうちに、共感に頼りすぎない関わり方の存在に気づけた」ことは大きい気がする。まだ考えてみたいことは多いようです。

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