良いこと…とは言い切れない…

先日のスタッフフェスで、桃太郎の話になったとき。(版権フリーの著名作のため、何かと活用されていた)

「桃太郎が突然『鬼ヶ島へ鬼退治に行く』と言い出す。ここまで鬼は出て来ないし、鬼が暴れてるエピソードが出てくるわけでもない。鬼ヶ島がどこで、鬼がどんな存在で、何故倒さなければならないかの説明もない。」

という話になった。
物語の掘り下げというより、展開が急だよね、的な流れではあったが、会場全体の雰囲気としては「たしかに!」みたいな空気を感じた。

なるほど、これがもし「静かなる森」の「森人たち」とかを倒しに行くストーリーだったら…「成長した主人公が静かなる森に住んでる森人ってのを倒しに行くんすよ!」とか言い出したら「ん?なにって???なんで??」って待ったがかかるだろう。

けど、鬼がいる鬼ヶ島は、キリスト教で言うところの「地獄の悪魔」だ。「良い悪魔」がいるわけがない。倒すに決まってるのよ。それを「この世界には地獄という場所がありましてー、そこは悪魔の巣窟で、悪魔というのはこういう悪さをする存在でー」って説明したら「話を進めろ!!!」って怒られるだろ?
これがもし「良い悪魔の話」なら、逆に「どうして良い悪魔がいるのか(先天的異常か、実は天使であるとか、ある時人間と触れて善性を知ったとか)」「そいつが普段、地獄でどうしてるのか(みんなに知れてて仲間はずれ()にされてるとか、周りに隠してて苦労してるとか)」「そいつのことをどうやって主人公が知ったのか(あまりに有名で地獄に行ったら自然と知れたとか、そいつに助けられた人間から話を聞いたとか)」そういうエピソードのアシスト抜きに「悪魔の中には良いやつだっているんだ!」みたいな展開になったら「…なんやそれ…」ってなる。ご都合展開というやつだな。

令和の現代、鬼はいないし鬼ヶ島も無い。
地獄に悪魔もいないから、割と「優しい鬼」だの「優しい悪魔」だのもエンタメの題材として手軽に利用されがちだが、それでも「その存在が稀だからこそ題材にできる」くらいの通念はまだあるよな。
まして、敬虔なクリスチャンとかでは「悪魔はとにかく悪!優しい悪魔など所詮、人をたぶらかす側面の一つであり信用してはならない」と思うだろう。そういうところをエンタメにするのも良い。

が、桃太郎は王道ストーリーなので、「実は鬼とは迫害された先住民で〜」みたいな話にされると、話は膨らみ意外性もあり面白くしやすいかも知れないが「桃太郎」を楽しみに来た客の需要に応えるかといったらNOだとおもう。原作ものってのは、必ずそういう「客の需要に応える」という部分でウェイトの重さを背負ってるはず。おもしろければ何でもアリ!とはなかなかならない。

帝劇にロミジュリ観に行ったのにジュリエットがロミオぶっころしてロザラインと駆け落ちするストーリーだったら、めちゃくちゃ怒られるよ。その場合は「新訳ロミジュリ」だの「令和版ロミジュリ」だの「改変ロミジュリ」だの、初めから「ロミジュリベースに違う話やるんだな」ってのが誰にでも分かる触れ込みが必要。

で、話が戻って、じゃあ何故鬼ヶ島に鬼がいて退治に行く?ってのは、桃太郎成立時期、そして語り継がれる何百年もの間「日本には『絶対悪』の通念があり、それは倒されるべきもの」だったからだ。
もちろん、その時代時代で、それは先住民であったり、障害者や感染症患者であったり、殺しや盗みの犯罪者だったり様々だったかも知れない、中には不当な扱い、迫害、冤罪、プロパガンダ、色々あったろうことも推察できる。だからこそそこに光を当てて新たに描き出すことも可能なのだが、「悪は悪いこと」で「悪いものは倒されるべきもの」「倒されて欲しいもの」という共通認識がまず大前提として動かし難く横たわっていた。
それによって「悪いことをしたら鬼が来るよ!」とか「地獄行きだよ!」とかも「人を正しく保つために有効だった」わけだ。

けど、現代ってどっちかというと「絶対悪なんて無いよね」「何かしら理由や事情があるかも」「そこを汲み取ってあげられる人が優しい人」「想像力を働かせて決めつけないように」「知識も想像力もないなら関わらずにそっとしておきましょう」が「主流」になってるんだな、と気付いた。

だから、いじめと聞けば「いじめっこにも事情が」「いじめられる方にも問題が」痴漢と聞けば「冤罪かも」裏金議員と聞けば「選挙や政治にはお金が要るんだよぴえん」みたいな気持ち悪い「調停員」が湧く。

ちゃうねん。
罪を憎んで人を憎まず、はまだわかるよ。
でも「人を憎まない為に罪を無かったことに、或いは矮小化しようとするな」とおもう。罪はちゃんと憎め。

悪いものは悪い。
ダメなものはダメ、正していく。
善性というものが、そういう絶対的な信念から「何でも許す」ことにすり替わっている。
多様性もそうでしょ。
あることをあるがままに「見留める」ことは「認める」ことと同一ではない。中身を見ないでぜんぶ綺麗な箱に詰めて並べて見た目を同じにすることではないのだ。

BLがコソコソ嗜むものから市民権を得て、とうとう当たり前の恋愛の形にまで到達したように、悪がコソコソから手口が知れ渡った結果「悪者も存在したっていい」になるのが良い!…わけあるか。

だけど、間違いなく「それはほんとうに悪なのか?」という視点を一人ひとりが持てる現代というのは、人のコミュニティの進化の一つであり、特定の権力者のプロパガンダにただ振り回され踊らされるだけでない、自分の頭で考え、自分の言葉で話し、自分の感覚で受け取る、そのための情報を集めることができる、というのは、かつてのコミュニティには難しかったことだ。
それはやはりインターネットの功績が大きい。

中国のように検閲が入っても、必ず人はその網の目を通す術を模索し獲得する。

そして、個々の時代だからこそ、多様性を持つ新たなコミュニティを構築することができるはず。
相手を肯定することと、相手を否定することは、必ずしも矛盾しないのだ。相手を否定することが、即対立では無い。表面だけをつるつるの球体に磨き上げたら、とっかかりがないし、必ず「届かない場所」が生まれる。
傷付きたくないから傷付けない、優しくされたいから優しくする、そんなエゴばかり集めて真の多様性社会が生めるはずないだろ。それじゃ「殺したいから殺す」もアリなのかよ。そんなわけがあってたまるか。目指す場所を履き違えるな。

旧態依然勢力からすれば、自分たちが転落しかねないその流れを阻害したいのは当たり前で、今はその混沌の渦なのかもしれない。

けど、どうにか、目指す未来へ進みたい。
海面が、陸地が、どっちにあるかも分からない渦の中だけど、諦めて飲み込まれてお終いにはなりたくないよね。

って、思った話。


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