「極論」であって「本質」ではないんだけど、言わんとすることをわたしなりに考えてみた。


たぶん、このひとの言いたいことは「女らしさ」という言葉が生まれた背景には「(男に都合がいい)女らしくあれ」というベースがある、という話だとおもうわけ。
それに対して「いや女の人自身も『女らしさ』を口にするでしょ」って言っても、それは「メンズシャツを女が着ても良い」みたいな話で焦点がずれている。
「本来男性のために作られた品だが、ファッションに取り入れて着こなす女性だっているんだから良いじゃない」みたいな話はしてないわけですね。

果たしていつから「女らしさ」という言葉や表現が生まれたのかは知らないのだけど、「女らしさ」を語る時、そこに「男」が不在であることは無い。けど、それだけで言うなら、「男らしさ」というのも同じではないか、と言える。どちらも、比較対象があるからこその「らしさ」なのだ。
そこにこそ、このポスト主の言わんとする本質ってのがあって、「女らしさ」も「男らしさ」も、それぞれ対象と比較することは変わりないのだが、「比較をしているのは常に男だ」ということ。基準が男の目線なのね。
「女らしい見た目」「女らしい装い」「女らしい言動」これらは「それによって『男から選ばれる女』になること」を指す。
一方で「男らしい見た目」「男らしい装い」「男らしい言動」は「それによって『目当ての女を得やすくなる』こと」を意味する。

基本的に、生殖本能に照らしてメスがオスに、オスがメスに選ばれようとする、より選ばれやすい個体が優位なのはどの生物でも共通であろう。ただし、一般的に自然界では「メス」が優位で「選ぶのはメス」「選ばれるのはオス」であることが多いと認識している。

しかし人間は、取り敢えず本国において「男が女を選ぶ」という感覚がベースにあるだろ、ということだ。
身分が高い場合は、基本に忠実に「女が選ぶ側」であることが多いと感じるが、それは「高い身分」或いは「その後ろ盾」という「力」が女性側にあるからに他ならず、そうでない場合は物理的な「力」要するに腕力体力で勝る男性が女を手籠にできるということ。そして、自然界ではなぜそうならないのか?というと、「メスが出産しないから」だとおもう。もしくは単純に「腕力や体力が多い方が生存に有利だから」メス側としては既にその個体を「選んでいる」のだろう。
人間の場合、その限りではない。道具や知力など、単純に腕力体力が「生存戦略に有利とは限らない」わけだ。そして「出産しない」ことより、「出産して自らを永らえる」判断が生まれる。女にも知性があるからだ。
だけど、出産には様々なリスクが伴う。だから知性ある女は「嫌な男は拒もう」と考える。男は女を力尽くで犯し種付けも可能だが、知性のある人間社会において、それはもうあまり歓迎されない段階になってしまった。さてどうするか?ということで出てきたのが「女らしさ」だとおもう。控えめな良妻賢母。良妻賢母って四文字が、もう全てを語っている。妻に賢さは不要なのだ。夫にとっては都合の良い妻であり、子供にとっては賢い母であれ、ということ。そしてその「男に都合の良い女」を「男が取り合う時に必要になるのが『男らしさ』」という順番。

その構図を知らない、或いは意識的に除外したまま、女が「女らしい女になりたいかどうか」や「女らしくあることをどう感じているか」の話をしても意味がない。「女らしさ」とは、メンズシャツ同様「男のファッションのひとつ」として作られたのだ、という話を、まぁしているわけだね。

そして今は、その「メンズ服」「レディース服」って括り自体をやめようぜ、という話をしている。
だからそこに「いや、それが無くなると期待服を探すのめんどくさいんですけど…」という人もいるのは当たり前なのだ。全部を混ぜて「総合平均的な落とし所を見つけよう」とするのって、日本人の悪い癖だと思う。

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