原っぱと遊園地-建築にとってその場の質とは何か-​​

著者はポストモダニズムの建築家青木淳氏。「白く塗れ」を提唱し、個々の作品ではモノ同士のヒエラルキーを無くすことを意図している。(wikiより)うん、サッパリである。笑

さっそく感想を込めて備忘していく。

「原っぱ」と「遊園地」建築は主にこの二つに分けられるそうな。

>>「遊園地」というのはそこでの楽しみ方を最初に細かく想定して、そこから逆算してその楽しみを叶えるべく整えられた建築や環境のことである。「遊園地」が本質的に目指すものは、利用者にとって「いたれりつくせり」の環境である。
しかしそこでは、はじめに想定された楽しみ方以外の楽しみ方を得ることはできない。

氏の例で言えば、ジェットコースターとして作られた環境は、ジェットコースター以外の楽しみ方はできないのである。デ○ズニーにいったらミ○キーと写真撮って、アトラクションに並んで~とそこで提供されるものに依存します。

>>これに対して「原っぱ」とは、そこに開かれた場所が与えられているだけであり、そこでの楽しみ方は、利用者がその都度見つけ出したり作り出したりするものである。そこで具体的にどんな楽しみがあるのかは行ってみるまで分からず、そこに集まってきたり居合わせた人たちによって、その場で編み出されて いく。自分たちで遊びを決め、ルールを決め、でも翌日には新しいルールがまた生み出されているかもしれない。環境は潜在的にそこでの楽しみをサポートするが、楽しみ方を利用者に押しつけることはない。

「原っぱ」ってドラえもんでいうあの「空き地」。土管がドンとおいてあってあとは何もない。「さあ、好きに遊べ」といわんばかり。
サッカーをして遊んだり、土管に座ってデートしたり、時にはリサイタル会場になったり。のび太たちは自ら遊びを考え原っぱを自分たちのものにしているイメージ。原っぱのプロともいえるのではないでしょうか。
「郷にいては郷に従え」⇒「郷を作れ」なんかマ○ボロの最近の広告みたいですね…笑
「原っぱ」については「裏原宿」も連想しますね。

他にも面白かったのは「動線体」という考え方。
>>建築が先にあって、それを繋ぐために道ができたと考えるのではなくて、道が先にあって、建築はその中から進化した
これは、タイトルとなっている「原っぱ」と「遊園地」の考えにも通じていて、「原っぱ」が「動線体」に、「遊園地」がそこから誕生したと考える。

まとめとして、イチからニを作るのは簡単だけどゼロからイチをつくるのは大層難しい、けれどイチを作れたらそれはもう自分の世界。そんなイチを作れたらいいなと感じました。

あ、あとこういう理数系?の書籍は理解に苦しむ場面があった。僕の知識や理解力がないのは承知してますが…笑
>>すでに壊れてしまっている環境に生きている。
氏の弁論と僕の解釈は全く異なっていると思う。。
でもまあ時々この類の書籍を読んでみるのもいいなと感じました。






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