東京生活10年を振り返るその⑦ 自律神経失調症を言い渡されてからバンドマンを辞めるまで
心療内科で「あなた、自律神経失調症ですよ」といわれた時点ではまだ心は折れてはいなかった。今思えば、バンドに依存・執着していただけなんだけど。
「ここで耐えたやつが勝つ、ここが勝負だ」いつもそんな事ばかり考えていた。ピンチになればなるほど血液が沸騰していった。
そんな不屈の精神を持っていた俺が次第にバンドから興味をなくし、現場から消えていくまでの話。
腱鞘炎で手首が使えなくなった
根本をたどれば、自律神経失調症になったのは「働きすぎ、練習しすぎ」が原因なので、物理的な意味でも肉体に相当な負荷がかかっていた。
自律神経失調症に隠れて、腱鞘炎の脅威は確実に俺に迫ってきていた。
ガリガリで女よりも手首の細い俺が限界を超えた強さで毎日長時間ドラムを叩いていたらどうなるか、結果は明白である。
サポートを辞めてまた一人になる
もうデカい音量で演奏するのは難しかった。2,3曲叩いたら手首が痛くて演奏できなくなるから、もう無理だと思ってサポートから離脱。
体調も手首も最悪になってしまったことを正直にメンバー達に伝えた。残ったライブを消化しておしまい。
今でも覚えてる。ラストライブかその一つ前のライブ、吉祥寺GBの楽屋で本番前に泣いたんだ。メンバーに見つからないようにひっそりと。
そして、はじめて一人になった。
その後なぜかあでるに拾われる
1人になって、「当分はドラムを習うことに集中しよう」そう考えていた。手首が痛い中でも大音量でなければ演奏できたので、基礎連を中心に練習した。
ただし、やはりそういう練習・行動は「義務感・不安感」からくるものなので、ついに自分の中でドラムの炎が小さくなっていくのを感じはじめた。
練習したいからしているのではなくて、「しなければいけないからしている」そんなマインドで何年も練習できるんだから、逆にすごいよ俺は。
そんなタイミングであでるからバンドに誘われた。俺はいい加減バンドというものに疲れていた。
でも、「あでるなら気を使わなくていいし、歌物だから手首にも優しいから大丈夫か」と思って加入をOKした。
でも、手首・体調の問題はそう簡単には看過できなかった。
それでもやはりメンバーとの人間関係は上手くいかなった
知らないうちにライブが入っていたり、ノルマがないと聞いていたライブでメンバーが勝手にノルマを払うと言い出し、残りのメンバーが負担することになったり。
連絡の不徹底、勝手な行動に対する不満が大きかった。
「手首が痛いからしばらくライブを休みたい」そうメンバーに伝えたところ、最初はそれで納得した様子だったが、1ヶ月もしたら自分の代わりにサポートを入れて活動するようになった。
メンバーだから一応当日顔を出してはいたけど、出演していないので当然対バンと交流することもなかった。自分がいなくても普通にバンド活動できてるじゃんか。
そしてアンチノックのライブ後にPAとメンバーが話しているのがたまたま耳に入ってしまった。「本メンバーの子より、今日のサポートの子の方がドラム良いよねー」
俺のいないところでそんな話をしてたのか。よくわかったよ。
ここで初めて「ドラムを叩きたくない」と思うようになる
今までを振り返ってみれば、自分はバンドを壊す側の人間だった。壊す側の人間は壊れてしまえばせいせいするのかもしれない。
でも、はじめて理不尽や圧迫を受ける側の立場になった。そのとき、洗脳から解けたかのように、「ドラムをもう叩きたくない」そう思うようになった。
俺は何が楽しくてこんな辛く苦しい人生を歩んできたのか。ドラムが俺に何を与えてくれたというのか。俺を不幸にしただけのドラム。人生のすべてを捧げてきたことに対する結果がこれか。体もボロボロになって。
そこから崩れていくのは本当に早かった。ドラムが叩きたくなくて叩きたくなくて仕方がなかった。
加入して数か月で、「残ったライブを全部消化したら辞めたい」そう伝えた。本当はもうその日のうちに辞めたかったが、バンドマンとしてそれはできないと思い、最後までやりきることを伝えた。
「最後のライブが終わるまでに新しい人が見つかったらその人に叩いてもらうかも」
純粋な意味で言われたのか、「貴様の代わりなんていくらでもいるんだよ」どっちの意味で言われたのかわからなかった。でも俺は「頼むから1日でも早く見つかってくれ…」そう心の中で祈っていた。
(あでるの名誉を守るために一応捕捉しておくと、俺はあでると知り合って10年たつけど喧嘩もしたことないし、人として疑うようなことはしない人です。)
人生最後の勝負だと思い最後の3か月を耐えることにした
今は5月、最後のライブは8月。遠征もある。ドラムを叩くのは本当に苦痛だった。たぶん、人生でもトップ3に入るくらい辛い3か月だったと思う。
誰も助けてはくれなかった。
この期に及んで、「ここをくぐり抜けられたら新しい自分に会えるかもしれない」またもや定番の悪い癖「自己洗脳」で自分を保っていた。
ラストライブの手前、山形の酒田でライブをした。早朝にバスで都内を走っているとき、「東京ってこんなにきれいだったんだ…」と感動した。
そして、「あと一回だ、あと一回ですべてが終わるぞ…」そう思ったら本当にうれしくて、元気が湧いてくるのを感じた。
あの日みた都心の朝焼けの景色も、いまだに忘れることができない。
ラストライブが終わり、レッスンもやめることに
ラスト。忘れもしない、8/24@渋谷ゲーム。叩きぬいた。よくやったぞ俺。もう一生ドラムを叩かなくていいのかと思うと嬉しかった。でも、いざ終わってみたらそんな感情すら湧かなかった。
完璧な無関心。飽きたテレビゲームを思い出さないのと同じ。ドラムやバンドは完全に視界の外だった。
そのままレッスンも辞めた。先生に辞めることを伝えて、人生について話した。「いつか青柳くんが自分の子供に、胸を張って自分の生きざまを説明できるのであれば、どんな選択をしても良いと思う」そんなような言葉をいただいた。
もう下北沢に通うこともなくなるのか。これで本当に全て終わったんだ…。
スタジオ(ガードアイランド西口)の青木さんにいつも、「人生が辛い、先が見えない」そんな話をしていた。青木さんは普通に仕事に来ているだけなのに、俺の不幸を勝手に背負わせてしまった。
青木さん、本当にごめんなさい、本当にごめんなさい。でも青木さんのおかげでぎりぎりのところでメンタルのバランスをとることができました。青木さんが俺のことを忘れても俺は青木さんのこと絶対に忘れません。
2015年8月?ツイッター・インスタで、一生ドラムを叩かない宣言をした。
まとめ
東京での7年近い音楽活動のすべてが幕を閉じた。バンドフリーターからただのフリーターになった。
「バンドのために我慢してきたこと、これからの人生で全部やってやろう」そう意気込んだ。
クレジットカードを作って、引っ越して、女の子をひっかけたり…まあ色々やった。それは次回から書こうと思う。
一応、いうまでもないことを言っておくと、今俺は普通にバンドをやっている。ということは、「一生ドラムを叩かない宣言をした男」が現場に戻ってくるまでの物語があるわけだ。
そのプロセスにどれだけの人間が関わっているか。俺を支えてくれたか。思い出してしまって半泣きになりながらブログを書いている。
この時点で推定25歳。まだまだ全然終わってない。自覚はなかったが、俺はまだ炎のど真ん中を歩いていた。
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