東京生活10年を振り返る・その③カラオケバイト~バチンバチン太郎とバンド編

新卒でLOFTでのバイトをはじめた俺は、あまりの辛さに3ヶ月ほどで仕事をやめてしまった。それだけでなく、「社会というのはこんな風に恐ろしい場所なんだ」とトラウマを植え付けられる形になった。

ここからは、カラオケバイトで少しづつ元気を取り戻していく話、kokeshiのコンポーザーであるバチンバチン太郎(あでる)とバンドを組むまでの話をしようと思う。

LOFTのバイトを辞めてからバンド活動が再開する

LOFTでバイトしている間はドラムをまったく叩いていない。体力が常に限界だったのと、仕事プラスバンドをやるなんて俺にはとてもじゃないが無理だった。そのままバンドをやらない可能性だって大いにあったと思う。

LOFTをやめた1ヶ月後くらいにurban fish market(当時)のライブがあった。気が進まなかったけれど、やってみたら楽しかった。そこでまだバンドを続けようと思った記憶がある。

バンドはタバコに似ていて、辞めるチャンスはいくらでもあったのに、気が変わったり、周囲の人間が勧めてきたりで復活することが多かった。そして最後には依存してしまった。

当時は自分が無力だったから、周囲から誰にも相手にされなかった気がする。平日のガラガラのライブハウスでクソみたいなライブして、ノルマ払って、しかもめちゃくちゃにダメ出しされて。そんときの「ちきしょう」っていう気持ちが俺を成長させ、のちに追い込んでいくことになるんだけど。

凪のようなカラオケバイト生活がはじまる

LOFTバイト時代、「ここで耐えられるなら軍隊でもどこでもやっていけるから頑張れ」と先輩に言われた記憶がある。そのくらい厳しかったんだろう。

そこから一転、底辺カラオケバイトに転職した。何もかもが緩かった。

「青ちゃん、何飲みたい?酒でもなんでもいいよ」と初日に言われて衝撃を受けた。遠慮しながらも「キャプテンモルガンのラムコーク…」って答えた記憶がある。

カラオケのバイトはみんないい人で、中にはバンドマンがいて。少しづつ心が溶かされていくような感じがした。

真夜中にみんなで飲んだり、歌ったり、スタッフがライブを見に来てくれたり、楽しい思い出がたくさんだ。ちょっと泣けてきた。

urban fish marketがすっと解散する

urban fish marketは活動の頻度が低かったので、何か文句があったわけではないが、脱退することになった。高校の同級生(あきちゃん)とバンドをやることになるのもこれが最後の最後だろうなあと感じていた。解散ライブはサイクロンだったけど、楽しかったよ。

人生で初めてバンドをクビになる

そこで新しくとあるバンドに加入することになる(バンドに迷惑がかかるかもしれないので、バンド名は伏せる)。そのバンドのメンバーは俺より少し年上で、ufmのメンバーと比べてだいぶ頼もしかったのを覚えている。

スタジオを順調に進めて、翌月には4本のライブが入っている(記憶があいまい)というところで、突然クビにされてしまった。

メンバーいわく「大先輩がうちのバンドで叩いてくれることになった。青柳には申し訳ないけど、これは俺たちにとってチャンスなんだ、すまない」とかそんなことをいわれた気がする。

正直にいってくれたし、円満に脱退できたが、ここでまた一つ「ふざけんなよ、見てろよ」の心の闇を増やす結果になった。

バチンバチン太郎とバンドを組むことに

当時20か21歳。あでるとは18歳ごろに出会っていた。あきちゃんと同じ、都心の専門学校に通っていた関係だからだ。そのつながりで、八王子の学生だった俺も友達になっていた。

2人ともやっているバンドがなかったので自然の流れでバンドを組むことになった。バックホーンとか、コックローチが好きだったので、死ぬほど暗い曲を作った。

このくらい曲が更に俺の心に闇をつくることになる。

※おまけ・やっていたけどあまり思い出せないバンド

この当時、3バンド並行してドラムを叩いていたのだけど、一つだけ思いだせないバンドがある。それが「ささやかな」だ。カラオケで働いていたころだから、時期はたしかこの辺りのはず。

歌物なのにベースラインが動きすぎてすごく気持ち悪いバンドだった。サポートだったから別にいいけど、一回のライブで辞退した記憶がある。

これも立派な俺のバンド履歴だね。

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