死については覚悟していたつもりだった

最近、群馬の「Black Rain」というバンドが好きで、なんとか対バンできないか、その方法を考えていた。

俺自身BABELでBlack Rainのライブはみたことがあったものの、メンバーとは直接のかかわりはなかった。ドラムのジロー君がたまにリプライをくれるくらいの関係。

4月に予定している毎年恒例の「花見ギグ」も、2月に入っているWALLのライブのどちらにも、Black Rainをブッキングできないだろうかと、周囲の人間に相談していた。対バンしたい、と「心の中で思っていた」とかそんなレベルではないのだ。具体的に行動に起こし、実行に移す準備を進めていた。

そんなタイミングで堀口さんがなくなったと聞いて、全身から力が抜けていくような気がした。堀口さんと直接しゃべったことがあるわけではないが、同級生が自殺したとき、先輩が自殺したとき、よく対バンしていたあの子が自殺したとき、これらとは明らかに違う「ショック」が俺の中にあった。

「死」についてはよく理解していたつもりだった


俺は、「死ぬことと見つけたり」という佐賀鍋島武士の本を繰り返し読んでいた。俺は、「死ぬことと見つけたり」という佐賀鍋島武士の本を繰り返し読んでいた。

鍋島武士は毎朝布団を出る前に、「死のイメトレ」をする。布団を出るころにはもう死人になっている。死人なのだから、「死ぬのが怖くない」のではなく、「すでに死んでいるので怖いものがない」のだ。

死を目の前にするとくだらない価値観や見栄、こだわりは吹き飛ぶ。自分にとって本当に必要な物だけを選択することになる。

鍋島武士は仕事をしない。死人が働くわけがないのだから当然だ。銃を磨いて、少し稽古をして、あとは呑むだけ。天気のいい日は釣りや狩りなど。時が来れば戦うが、普段は人の稼ぎで暮らしている。

現代社会に生きる俺にとって、鍋島武士の生き様は衝撃だった。「必ず死ぬのだから、常識や周囲の目、世間体に縛られながらいきる必要はない」この教えが俺の心をどこまでも軽くしてくれた。

「自分もそうだし、周りの人間も必ず死ぬ」このことを覚悟して生活していたから、「これから先の人生で、誰が死んでも悲しまないだろう」そう思っていた。

満足な人生を送れないことが一番の悲劇

「死は皆に平等にやってくるから予防接種のようなもの、送りたい人生を送れないことの方がよほど悲劇だ」生死についての俺の考えである。

例えば交通事故にあったとき「死んでしまう」のと「一生自分の足で歩けない」であれば後者の方がよほどかわいそう、だと考えていたのだ。

しかし、「死んでしまうとどうにもならない」今回はそう感じた。

「死が目前にあることを覚悟して生きる」これ自体は変わらないものの、いざ人が死んで一切動じないほど、自分が強い人間ではことがわかった気がした。

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