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(2020/7/10)「つなぎとめるもの」としての音楽

こんにちは。
九州地方を中心に、今週の大雨で全国的に被害が広がっています。被災地に思いを巡らせつつ、どうかこれ以上に被害が広がらないようにと願っています。目先の利益よりも、長い意味での生活の安全がいかに大切か、ぜひ首相にはそこのところを「痛感」してほしいものですね。

のっけから嫌みったらしい枕になってしまいました。すみませんねぇ。

さて、ちょっと以前のことですが、「音楽に政治を持ち込むな」という言論が注目されたことがありました。「政治を持ち込む」という行為の是非や考え方に関しては、様々な側面から読みとかねばならない問題です。けれど元来音楽は、作者による意図を持った創作・表現物という意味では、極めて広い意味での政治性を帯びたものだと基本的にはそう理解しています。

ただ、その一方で音楽には、作りて、あるいは聴きての思想信条に関係なく、広く人々の感性や感覚を揺り動かし動かされるという意味での普遍性も同時に持ち合わせていると思っています(つまりそれは同時に、さまざまな主体によって政治「利用」される危うさも孕んでいることを忘れてはならないのですが)。
例えば、音楽史を紐解くと、ポピュラーソングであったり、ジャズであったり、クラシックであったり、聴きての背景や思想信条を選ぶことなく、名曲と言われる音楽が数々あるわけです。懐が深く、感覚的に心地いいと感じる音楽の前に、思想信条に関係なく、そこで共鳴し合えることが、とても重要なことではないかと思うのです。

昨今SNSなどでも顕著ですし、自分自身もそうなってしまいがちですが、自身と政治や社会に対する考え方が異なる人たちとは、どうしても「敵か味方か」「わかる人かわかってない人か」というような二項対立を作ってしまうように思います。けど、自分とは思想信条が異なる人が、ビルエヴァンスの「Waltz for Debby」が好きでよく聴いてるんですよ、なんて言われたら、自分なら、「お?」と思ってしまうわけです。
そこで「お前なんかにこの音楽の良さがわかってないだろう」と、マウントを取りに行くのではなく、その音楽をどういう側面から捉えようが、単純に「好き」であるという感覚が一致するということが大切だと思うのです。それ以上でもそれ以下でもない。
僕は、あらゆる対話は大事だし、その姿勢を怠ってはいけないなと思っていますが、必ずしも全ての人にその対話が可能かというと、そうではないと思っています。けど、仮に相手がそんな対話不能な人だったとしても、好きな音楽を少しでも共有できたのならば、それだけでとても幸運なことだと思う。というか、それだけでいいと思う。それがなにかの抑止力になるかもしれない。それが芸術のもついい意味での理不尽さではないかと思います。
完全に分断してしまわない距離を取る、という意味で、音楽は、人と人をつなぐ糸のその最後の一本になり得ると思うのです。
「〜すべき」という言い方はあまり好まないのですが、このご時世、こういった視点は、誰もが持っていた方が良いように思います。
こういう「繋ぎ目」としてのツールがたくさんある方が、世の中の均衡は保たれやすいのではないか、と思います。

そんな意味で、僕も好きで毎年参加しているイベントで、夏至にカレーを食べて、今年後半の健康を願う「夏至カレー」なんて試みがあるのですが、とても共感しちゃいます。
カレーには、音楽と比べても政治性なんてこれっぽっちもないわけで、完全に好みの世界じゃないですか。それが逆に、誰もに開かれた世界になっていて、ともすればこの国の人々の平和に十分貢献できそうな可能性を秘めまくっているよなとすら思っています。

書いてたら、カレー食べたくなってきました。と言うか、木曜のお昼はカレー食べたんだっけ(笑)。

そういう意味では、これなんか「繋ぎ目」ツールの真骨頂だと思うんだよね。
だって、こけしに鳴子とか遠刈田とか津軽とかあれど、右とか左とかないですもんね(笑)。
普遍性の極致、と思ってます。

それではまた。。
雨も早く落ち着きますように。
くれぐれも用心して、過ごしましょう。

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