さる・るるる


久しぶりの更新である。

いつもどうでもいい事ばかり書いてあるこんなnoteの更新を待ち望んでいる人間などいるはずはない。それは分かっているが、1ヶ月くらい日が空くとついつい「久しぶりの更新だ」といった旨を書きたくなってしまう。

別にそんな枕詞がなくても誰も何も思わないというのに書かざるを得ない。こういうのを自意識過剰というのだろうが、それを自覚した上でも僕のフリック入力はここまで止まることはなかった。

別に日が空いたことに意味などない。たまたまこの間まで、自分の過去のことを書くのが流行っていただけであり、その流行りが急に止まっただけである。小学生の頃にやっていたゲームを久しぶりに引っ張り出して、妙にハマるような事が誰しもあるだろう。そんな感じだ。noteは書かないまでも、なんやかんや家で大学ノートに死ぬほど日記を書いたりしていたが、まあそういうことなのである。


先日、28歳の誕生日を迎えた。28歳となると若者ともおっさんとも言えるくらいの年代となってくる。

もし僕が平均寿命くらいまで生きられるのであれば、大体人生の3分の1くらいが終わった計算となるが、ここまでの人生どうだろうか。別に珍しい話ではないだろうが、実はここ数年くらい人生の意味とか本気で考えたりしていた。どこに向かって生きていくべきだろうと思っていた。


そんな時、少し前になるが僕は友人と奄美大島に旅行に行った。しかし旅行といってもレジャー体験などのプランはほぼ立てておらず、南の島でただただボケーっとしようというのがテーマの、大富豪の人生の最後の方みたいな旅行だった。

何も予定のない僕らが向かったのは、奄美大島でも外れの方の全く人のいないビーチ。友人はシュノーケリングをしながら延々泳ぎ続けていた。一方僕はゲストハウスで借りたボードに乗ってプカプカと水面に浮いていた。

水の上で浮きながら、ソーダゼリーのように青く透き通った海や、夏らしい弾力のある雲、奄美大島特有の大昔のジャングルのような山々を眺めていた。そこには車もほとんど通らないため、耳に運ばれてくるのは波の音と蝉の声のみだった。

そうやって何時間もブイのように浮き続けている時に、「今モーレツに生きてるなあ。」となんとなく感じた。


おそらくその時は先の予定やすべき事などが一切無かったため、限界までボーッと出来たのだろう。その結果、将来の不安や人間関係のしがらみなども頭から消え失せ、人間社会の諸々から完全に切り離されて現在自分を取り囲んでいるもののみを感じることができた。自分の中の人間らしさが限りなく削ぎ落とされていたような感じだ。

人間が現れる以前のような大昔の様相を呈した大自然の中に、自分の身を放り投げた時、擬似的ではあるが人間からただのサルに戻れた気がした。
そんな風に、自分がただの一個の生命体であるという事実を思い出した時に、「生きるってこういうことでいいんだよなぁ。」とぼんやり分かったような気がした。

ほとんどの生き物は生きることの先なんて考えていない。なんでも自分が死ぬということを知っている動物は人間だけらしい。だから人間は宗教を生み出したのだそうだ。クヨクヨ先のことを考えすぎず、今自分を囲っている様々な現象や、ただ流れていく時間を感じること、それが生きるという事だとサルになった僕は確かに感じた。この気持ちはずっと大事にしていきたいと、今当時を回顧しても思う。

と、ここまで書いて、たった数日南の島に行っただけで人生の意味を分かったような気になっている自分の単細胞っぷりを少し恥じると共に、もしインドになんかいってしまったら僕の価値観どうなってしまうんだろうと少し恐ろしく感じた。絶対死ぬまで日本から出ないぜ!


終わります。

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