わたしが誰かわからない
母は近かった。おいしいご飯と愛情で、心と体を満たしてくれた。私は肥満児だった。
父は遠かった。8歳の私は交換日記をしようと父に提案し、自ら近づこうとしたが、遠いままだった。
10歳の頃、父母の関係が悪化。夜に怒鳴り合う声を聞くのが本当に嫌で、1人でよく泣いていた。
泣いていることを、父母には絶対に知られてはいけないと思った。
程なくして、父が家を出た。
鎹(かすがい)になれない自分に、子としての価値がないと思った。
母の力になるため、家の手伝いをした。役に立つことをしたかった。
父を少し憎んだ。憎んだ自分をさらに憎んだ。遠くても、父の愛情は感じていたから。
3ヶ月後、父が家に戻った後、母は数日間入院をした。
退院した母は、なりたい職業を見つけたと話し、私も心から応援したいと思った。
母はパートで働きながら、その勉強をするため、帰宅の遅い日が増えた。
私は今まで以上に、家の手伝いをした。
科せられたわけではなく、母の喜ぶ顔が見たかった。自主的に掃除、洗濯、洗い物とせっせと取り組んだ。
しかし、母の帰りは遅く、喜ぶ顔も見れず、泣きながら眠りにつく日も多かった。
日常に寂しさがじんわり揺蕩っていた。
友達とも距離があった。
「女子とばっかり遊んでるよな」と男子に揶揄されることも多く、仲の良い女の子にすら、近づきすぎないように気をつけた。
はないちもんめでは、名前を呼んでもらえなかった。
友達としての価値がないから当然だよなと理解しながら、傷ついてもいた。
その傷つきも、父母には絶対知られてはいけないと思った。
勉強ができないことよりも、運動ができないことよりも、友達がいないことが一番心配させると思っていたから。
心配させないように、友達と遊ぶ約束をしたと嘘をついて、1人で外をふらふらしていた。
両親は若かった。母は18歳で兄を産み、21歳で私を産んだ。
よく育ててくれたなぁと思う。
私は私で「親が若いから◯◯だ」と周囲からネガティブなことを言われないよう注意を払った。
こんな風に育ち、こんな風に私の「ケア」の土壌が耕された。
自分に価値を感じられるように、誰かのケアをしようとする。
自分の傷つきは人に見せようとせず、ケアすることでケアされようとしている。
滅私の精神は何処へやら。こんな人に良いケアが出来るんかい。
それでも仕事としては色んな経験を積ませてもらい、駒としてはそれなりに機能を果たせるようになったと思う。
ケア全振りの仕事内容じゃなくなったのも、多分良かった。
苦しいけど、よく頑張ってるし、それは自分でも認める。
これからは、モチベーションを「役に立ちたい(ケアしたい)」から、実際に役に立った経験に変えていこう。
ほんで生活の中で、ケア的な感覚を持ち出すのをやめる。
これが人に気持ち悪いと思われたり、結果的に場の雰囲気を澱ませてしまう要因だ。
とまぁ、こんなことを土日で、うらうらと考えていました。
きっかけとなったのが昨日参加した「私が誰か分からない ヤングケアラーを探す旅」という書籍のトークイベント。
著者の中村祐子さんが、とっても実直で誠実な方で、安心して自分の中に潜っていけました。
今までは、寂しくて1人で泣いていた自分も、傷ついてふらふらしている自分も、どうにか救いたいと思ってきたけど、最近は隣で肩組んで「仕方ないよな!お前はそんなだからな!」と思えるようになってきたし、その調子で、誰かのケアをしていなくても私は私だと思えるようになれると良いです。
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