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【イトナミコラム6】万物に伸びる縁の道「nagナグ」を見つけよう その2 仔と群れのあいだのnag

◎現実と概念のあいだのnag

この宇宙、そして地球に存在するものたちの間には共通する事がある。それはもちろん現実に実在する物質的なものではない。人間それぞれの精神世界に共通意識として存在する概念的な自然生命のようなものだろうか。

それは宇宙の始まり、地球の始まり、そして25億年前に海中のバクテリアや植物プランクトンが光合成をはじめたとき、五億年前に地上に生命が進出したときから具体的にはじまり加速していったと思われる。

私はその予感を現実世界の日本酒造りから感じ、その自然生命という共通点をイトナミと名付けました。イトナミの感動を知るため、他者に伝えるために、私は独学をはじめました。

そうしてイトナミの正体を探るうちに、古代の人間は自然生命という共通点やその導線を蛇や水のうねりの形に見立てて信仰していたと知るようになります。

関係性がない相手には贈与によって関係性をつくる
前回では贈与によってできた縁の道筋である繋がりをnag(ナグ)と名付けた

また、その自然生命や神を現実に五感で入力できる形に変換して、自然生命や神という現実には存在しない概念を共感し合うことで繋がりを認識し合っていたことも分かってきました。

酒は、神や自然といった五感で感知できない概念を具現化した芸術(アート)だったのです。

こうして人々のあいだで概念世界の共有がなされ、集団のムラ化が進むと、酒は社会性を獲得し、伝統芸術(トラディショナルアート)となりました。

それが現代になり資本主義や敗戦をきっかけとして、日本人の概念世界から日本という属性が薄れていくとともに日本酒は工芸(クラフト)や生産(プロダクト)に変化して、概念世界をさほど必要としない現実世界で完結する嗜好品になっていった事がわかります。

以下のように過去の酒の特性が地層のように混ざり合って成り立っているのが現在の日本酒でしょう。どこが良いということではありません。

サケ…芸術(アート)
御神酒…伝統芸術(トラディショナルアート)
地酒…伝統工芸(トラディショナルクラフト)
酒類や嗜好としての日本酒…工芸(クラフト)
資本としての日本酒…製品(プロダクト)

こうなると私はトラディショナルクラフトサケアートプロダクトブルワーということで、略すとイトナミ杜氏で良い気がします。

日本において、酒を神に贈与する儀礼を祭りと呼びました。神から人への米と子孫の贈与、人から神への酒と祭りの贈与を通じて、人と神のあいだに関係性をつくり、その神を人々のあいだで共有(直合)することで万物に繋がり(nag)があることを確認していました。

◎人の環世界

人と自然、人と神といったように、2つの異なる存在のあいだに繋がり(nag)をつくることで時間を発生させて未来をつくる。

人と神という矛盾を同一にし、新しい物事と時間を生み出すこの仕組みは、東洋的には縁起、西洋的には弁証法と呼んでいます。レヴィ・ストロースはこの仕組みやその推測をブリコラージュや構造と呼び、折口信夫は類化性能や別化性能と言いましたね。他にも色々と派生しています。

全てのものは縁起・弁証法からつくられていると思うと、その存在から何が造られ、何から造られたのか類推することが出来る。酒の味わいからその背景を演繹的に類推することができれば、酒という現実の香味から概念世界が覗き込める。

この仕組みは無から現れたものではなく、実は私たち人間の心と身体の仕組みと同じ構造を持っており、縁起も弁証法もおそらく人間のこの精神構造をベースに構築されたものだと思われます。

私たち人間はこの世界を、五感から感じ取れる現実と、脳内で作り出す概念を織り交ぜて認識していますね。

心と身体でわたしの世界になる

人が認識している世界は五感+概念が合わさったものです。人間1人1人が同じ現実世界を生きながらも異なった世界観(概念)を持っているのも現実と概念で自分の世界を見ているからです。

その世界は人間だけではなく、あらゆる生物が持つと考えられ、生物学者のユクスキュルは各生物独自の世界観を「環世界」と呼びました。

左:人間の環世界から見たミツバチの現実世界
右:ミツバチの環世界から見た現実世界
現実世界は見る生物によって変化する
人間以外の生物は概念を持っていないと思われるので、同種属においては同様の世界を見て同様に認識できるので基本的に群れから外れる個体はいないのだろう。

人間ひとりひとりが独自の環世界を持つということは、現実世界で起こる事象の善悪などの判断もその人の持つ環世界によって判断されるということです。

現実で起こった出来事に善悪の判断をつけているのは個人の概念世界の精神構造であり、その善悪は現実世界で決定されるものではありません。

アドラーが言うように、良いと思うことも、怒ろうと思うことも、すべてそれぞれ個人の概念世界で決めている。

酒を飲むことに抵抗がない人もいれば、強い嫌悪感を持つ人もいる。酒を飲むという現実世界に善悪はなく、あくまでも個人の概念世界で善悪が決定されるので、そこで共感と分断が発生する可能性があります。

私たちは同じ概念を共有する何かしらの群れに所属しているため、共通の悪いこと、良いことを教育によってあらかじめインストールされている状態です。

現実世界で起こった事象に対して、その人間がどういう反応を取るかということが、自分と同じ概念を持っているかの確認として機能していることが解ります。

現実世界から入力された信号に対して他者と喜びや哀しみといった感情を共有できなければ、それは概念を共有していない相手として分断(孤独)が生まれます。

同じ現実世界の入力から共に笑い喜び、同じことで怒り悲しめば、それは同じ概念を共有する近しい人間ということで親密度が高いはずですね。その最たる事例が家族や仲間でしょう。誰もに共通する概念を現実に組み込めば分断は生まれないはずです。

このことは仏教の自我や無明という考え方や、近年の承認欲求という言葉、アンガーマネジメントや認め合う社会の考え方と同じで、概念と現実の違いを明確に分けて理解すると自分と他人に振り回されることが少なくなり、芸術や抽象的表現から意図を読み取るアナロジーも養われるので、とてもおすすめの思考法です。

心や身体は自分自身だと思っている人が大半だと思います。しかし実は私たちが意図的にコントロールできる心身はかなり限定的であり、五感の入力センサー部分という表層的な部分ばかりで、実は脳も内臓も髪も髭も爪もアソコも自分のものなのにほとんど自分でコントロールできませんね。

そう思うと養老先生の言うように脳も身体も自分ではないのかもしれません。これらは先人に与えられたゲノムを元にアミノ酸で肉付けしたものだし、そのアミノ酸のもとは肉とか魚とか植物などの他生命が元になっているから、いま現在の心身だってただ自然生命から借り与えられてるだけかもしれない。いつか生は奪われて土や空気に還されるわけですし。

人間は概念世界(こころ)と現実世界(からだ)という矛盾をもち、それを同一にしようとする繋がりの運動を行います。その繋がりの部分の往来が本当の自分自身かもしれません。

そうであれば、繋がりを現実に具現化する芸術を行えば、自分の肉体を超えて概念としていろいろな人の中に入力されて、長く組み込まれるかもしれないと言うことです。

死してなお、概念として生き続ける。伝統、文化、血の繋がり(saga)とか普遍的な考えや歴史的な名著や作品なんかもまさしくこの形態ですね。

◎概念と現実のあいだのnag

人間の環世界を概念世界と現実世界に分けて考えると、私がいままでイトナミコラムで探求してきたイトナミや愛や縁やnagという哲学は、私の脳内で形而上学的に理解された抽象的な概念だということができます。

概念から現実はつくられ、現実は概念を強固にする

そしてこれらの概念をもとに現実世界で五感入力できるように具現化したものが私のつくる日本酒であり、このコラムのような言葉というものです。

無窮シリーズは概念と現実のあいだの往来で生まれている

私の頭にあるイトナミという概念は、日本酒や言葉を介さなければ他者に伝わることはありません。概念は明確な現実との繋がり(nag)を伴ってはじめて他者と共有できます。天穏を飲んでいないならば、私の概念を文章化したものを読んでみようなどとは思わないはずですね。

これはものづくり全てに当てはまる事柄で、他者に概念や背景を知ってほしいと思うのであれば、現実世界においてそれを五感で入力できる形に変換してから他者に伝えないといけません。

概念だけで話してもスピ系の怪しい人になるし、現実だけで判断していると他者の心を動かすことはできません。

気持ちを伝えるためには現実世界に作用する行動と概念世界に作用する言葉を必要とします。そして当然、概念と現実のあいだ、行動と言葉のあいだには繋がり(nag)が必要となる訳です。

概念と現実、行動と言葉のあいだに明確に繋がり(nag)があるものとして、日本酒の他にも日本料理、民謡や踊り、伝統文化風習や遊び、日本人や関西人、名字や◯◯さんの子供など、国やお金、人間そのものがあげられます。これら現実の集合体が日本や国といった抽象的概念を再度作り上げているとも言えますね。

◎日本酒の概念と現実のあいだのnag

私が身を置く日本酒の環世界は、日本という概念と、酒という現実の特性が一体となって初めて日本酒として認識されます。

日本酒は概念だけであればただの空想上の文化伝統であり、日本酒という現実だけではただのアルコール飲料となります。

概念と現実のどちらか片方では日本酒という環世界を100%表現できず、日本酒は概念と現実が伴って初めて私たちの共通点である日本酒となるのではないかと思います。

概念と現実を自由に行き来できる者をアルケミスト(神秘的合理主義者)と名付けよう。

日本酒は概念と現実のあいだ、先時代の御神酒においては人と神とのあいだを行き来し、そこに時間を発生させてきました。その時間の積み重ねが日本というイトナミを作り上げてきたのだと理解しています。

日本酒を探求して理解する場合は、日本酒の概念と現実をしっかりと区別して話さなければいけません。日本酒の概念は文化伝統にひも付き、日本酒の現実は醸造技術やその香味にひも付けられ、なおかつ互いに矛盾なく往来できるもの、すなわち繋がれたもの(nag)が好ましいと考えられます。

もし日本酒で日本と概念世界をも表現する伝統芸術がしたければ、私は概念の探求と、酒造技術の探求、そしてその繋がり(nag)の構築が必要だと感じています。

わたしの日本酒の環世界では、概念世界をこのイトナミコラムで文章化し、現実世界では日本酒の醸造とその香味で表現し、そしてその両者を繋げて縁起させ、天穏という場を借りて環世界を構築しています。

具体的な醸造技術や数値はなかなか紹介できるものではないので、私の現実部分をお見せ出来る機会は少ないですね。こうして文章だけ読んでると概念部分だけが強く見えがちかもしれません。

このように日本酒の概念と日本酒の現実のあいだには消して交わらない境界線が存在する。しかしそのあいだは往来が可能なように論理的にも概念的にも繋がり(nag)が取れていなくてはいけない。

矛盾しつつも同一となるこの特性が日本酒の難しいところであり面白いところでしょう。日本酒は矛盾律・同一律・排中律をすべて包み込み、そのことが私たちに分断していることも繋がりがあることも思い出させます。

◎日本酒を飲む私とあなたのあいだのnag

現実世界での分断は概念の分断を意味し、現実世界での共感は概念の繋がりを意味する。

日本酒を誰かと飲んだとき、決して交わらない好みや人格の違いのような矛盾を知ることもある。日本酒を飲むことで私とあなたという矛盾が同一になったかのように意気投合することもある。

それは酒を飲み交わすという現実から互いに共通する概念を探りながら共に認識し合っていることを意味します。その結果、分断することも繋がることもどちらもできてしまうのがお酒なのでしょう。

日本人は日本という概念の共有で繋がれている
その日本酒が本当に日本の酒ならば、日本人はその日本酒によってすでに繋がれている。

そんな中で、出来ることなら分断を知る酒ではなく繋がりを思い出させる酒を造りたい。醸造家であればそう思うのは自然なことではないだろうか。

先人たちから酒造技術という愛を与えられた私は、自分の概念世界から発生したこの意味への意志にYESと答えなくてはならないと感じている。

酒造哲学と酒造技術の繋がりが大切だがこれが難しい

繋がりを思い出すために必要な現実的ファクターはどこにあるのだろう。現実世界の中から「繋がりを担っている存在(nag)」を探してみよういうのが今の課題です。

そいつはこの現実世界において矛盾を同一にしてしまう特異な大不思議世界の住人というべき繋がれたもの(nag)だ。もう目星はついている。身近な群れは、土と水と空気にあり、地球と宇宙にある。

◎仔と群れ

繋がり(nag)は群れのなかにある。だって繋がりとは仔が集まった群れのことだろう。群れとは仔が帰るところ、概念が繋がるところ。

概念を共有する仔の集まりを群れと言う
イワシの群れならイワシという生命の概念を共有する
日本人なら日本という概念を共有する
現代社会なら資本主義という概念を共有する
私たちは様々な概念を持っているので重複していくつもの群れに身をおいている

ここで言う群れと仔は私がイトナミ発見初期に名付けて勝手に言っている概念なので、この言葉は色々な呼び方に置き換えられます(仔と群れの言葉は天童荒太さんの小説より影響を受けてこの呼び方にしている)。

天童さんの言葉と物語によって、そのやさしい概念を共有している

西洋哲学的には仔はロゴスで、群れはピュシスやコーラ。よく知らないけどユング心理学的には仔は意識で、群れは集団的無意識とも言える。

仏教的には仔は色で、群れは空。東洋哲学では仔は一で、群れは多や全と呼ぶことができますので、しっくり来るものに置き換えていただいて大丈夫です。

聞き慣れないかもしれませんが、このロゴスとピュシス、意識と無意識、色と空、一と多、仔と群れの思想を追求した偉人は過去にも数多く存在しています。

日本酒の世界でこんな面倒なことを言っているのは私だけだと思うが、このロゴスとピュシスを巡る冒険の血潮は過去の様々な分野のアルケミストたちから繋がれている。

◎ロゴスとピュシスのあいだにnagを見たアルケミスト(神秘的合理主義者)

読んだ人はそれがどこにあるか知っている

自然生命や人間と言った共通概念からもたらされる疑問に対し、概念と現実を行き来しながら冒険を続ける者をパウロ・コエーリョの小説に習い、アルケミスト(マジックリアリズム/神秘的合理主義者)と名付けよう。熊楠のように矛盾が同一になる縁起的でとてもいい名前だ。

いままでのコラムでも紹介した偉人たちは、強い科学者でありながら概念世界の探求を勧めたアルケミストだった。彼らは科学者らしく、概念世界の形而上学と現実世界の自然科学のあいだに矛盾がないように論じている。

ロゴス(言葉や数字や科学)の細分化して理解する力は、生命という全体群を捉えるためにある。そんな彼らの自然生命への博愛に私は強く惹かれたんだと今になって理解しました。

理論物理学、波動力学のシュレディンガー方程式で有名なシュレディンガーはロゴスの追求からピュシスに気付いてロゴスとピュシスによる統一論を求めた。「道を求めて」で永遠の今という繋がり(nag)をショーペンハウエルや古代インド哲学の”其は汝なり”を引用して説いてくれました。近代のロゴス全盛世界でピュシスを見るためには、まず強いロゴスの探求が必要だ。


君が君自身のものと言っている認識や感覚や意志からなるこの統一体(君自身)が、さして遠い過去ではない特定のある瞬間に、無から降って湧いたなどということは有りないのである。この認識や感覚や意志は本質的に永遠かつ不変であり、すべての人間に、否感覚を持つ全ての存在において、数量的にはたった一つのものなのである。(中略)君、そして意識を持つ他のすべての存在は万有の中の万有だということなのである。君が日々営んでいるその君の生命は、世界の現象の単なる一部分ではなく、現象全体をなすものだと言うことも出来る。古代インドのバラモンたちはこのことを「其は汝なり」という神聖にして神秘的であり単純かつ明快なかの金言として表現した。かくして君は大地とともにあり、大地は君と共にあるという確かな信念を持ち、母なる大地に身を投げ出す。(中略)永遠にそして常にただこの今だけがあるのであり、全ては同じ今なのであって、現在と終わりのない唯一の今なのであるのだから。この永遠の今という真理の獲得こそが、倫理的に価値のある全ての行為を基礎付けるものなのである。

シュレディンガー 我が世界観より
何を言っているのかよく分からないと思うが大丈夫。
私もわからないけどシュレディンガー兄貴の言葉を心で理解している。

数学の岡潔は道元を引き合いに出して繋がり(nag)を情緒と呼んだし、南方熊楠はそれを曼荼羅スケッチで書き示して華厳経や粘菌と融合してこの世を大日如来の大不思議世界と表現した。

情緒とは野に咲く一輪のスミレを美しいと思う心だ

岡潔

群れの概念がなければ私たちはスミレをただの花だとしか思えない。「ただ美しい」と情緒的に思うことができるのは、この世界とスミレと私のあいだに繋がりがすでにあるからだ。

西田幾多郎は過去と未来の絶対矛盾的自己同一の連鎖が永遠の今をつくると表現し、その弟子の生物学者の今西錦司は仔の種社会(環世界)が棲み分けをしながら「元一つ」というべき生命全体社会(群れ)を形成していると言った。

絶対矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへという世界は、またポイエシス(おのずと現れること)の世界でなければならない。製作といえば、人は唯主観的に物を作ることと考える。しかし如何いかに人為的といっても、いやしくも客観的に物が成立するという以上、それは客観的でなければならない。我々は手を有するが故に、物を作ることができるのである。我々の手は作られたものから作るものへとして、幾千万年かの生物進化の結果として出来たものでなければならない。隠喩いんゆ的でもあるが、アリストテレスはこれを「自然が作る」という。

西田幾多郎

家族との別れからの深い哀しみから到達した西田の考え。客観的であり、幾千万年かの生物進化の結果としてという言葉が群れの前提に立っている。シュレディンガーと言っていることがほぼ同じなのがすごい。

宗教家のマイスターエックハルトや社会心理学者のフロムは群れを愛と呼び、ユングは集合宇宙的無意識とし、ヴィクトルフランクルは群れからの問いかけを意味への意志と呼んで、欲望に負けず意味への意志にYESと答え続けよと説いた。

汝の自己から離れ、神の自己に溶け込め。さすれば、汝の自己と神の自己が完全に一つの自己となる。神と共にある汝は、神がまだ存在しない存在となり、名前無き無なることを理解するであろう

中世のキリスト教神学者 マイスター・エックハルト
神の自己や名前なき無とは万物の共通の群れのことだろう
一神教のキリスト教では異端とされてしまった

芭蕉は自然風景の中にある群れの情景を言葉に変換し、宮沢賢治はイーハトーブという全てにつながる理想郷を想定してその群れの概念から作品を生み出した。岡潔が繰り返し芭蕉を引用しているように、万物に通じる群れの美意識がなければ自然の情景を美しいと思うことはできない。群れとは生物に限らず、鉱物、水、空気などの無生物も包んでいる。

秋深き 隣は何を する人ぞ

芭蕉
たったこれだけの言葉で自身と隣人と空間を群れにしている

このように群れの概念は常に現実と同時に存在している事がわかります。仏教や密教が色即是空、空即是空、一即多、多即一というように、仔と群れのあいだには繋がり(nag)が既にあり、互いに影響を即時的に与えあっていることを意味します。

風景や山や庭や土は群れの概念
木や葉や岩や砂や人は仔という現実
群れは仔と共にあり、仔は群れによって存在を理由づけられる

色や一であるロゴスを極めた科学者や表現者が、空や多といった群れの概念を発見する点も面白い点であり、やはり同一律と矛盾律のみを扱う分類のロゴスだけではどちらかでありどちらでもある排中律は満たせず、概念と現実が繋がれているこの世界を表現することは不可能であると考えられたのでしょう。

現実世界というロゴスの探求を素直に果たした者は、その探求が自分自身とロゴスだけでは成り立たたいことを知り、概念の探求と群れへの還元を考えます。

自身の現実世界だけに満足して概念的探求を放棄すれば世界に分断を生む要因となるかもしれない。私だけの酒、俺が認めた酒、早く酔える酒、それは承認欲と自己愛で絡まった自我欲求の塊で欲望を満たすだけ酒になっているかもしれません。

それはフランクルが言うところのナルシシズムや欲望に染まる行為、快楽の意志や力への意志であり、フロムの言う自分に足りないものを埋めようと永遠に渇望して所有しようとする「もつ様式(having)」のようなものです。

それは群れからの問い(意味への意志、ある様式being)を放棄していることになり、お酒の抱える分断という特性を助長してしまうかもしれない。そのことをお酒を扱う人は知っておいても良いでしょう。

◎おわりに

南方熊楠が仔と群れを繋ぐ存在が地球上に必ず存在するとして粘菌を発見して研究したように、現実世界の群れと仔の関係性がどこにあるかを探さないといけない。現実世界や他生物には概念が備わっていないので、概念的役割を現実に果たしているものが実在するはずだ。



空気中の水分量で仔にも群れにもなる粘菌
南方曼荼羅は2次元で書かれてるけど3次元で見なくてはいけないし
曼荼羅で言ってることは4次元+2次元以上は確定なので結局3Dでもわからない。
熊楠は即時干渉し合う10〜11次元×∞層の世界をすでに予測していただろう。

自然って本当にあるの?
有機物と無機物とそのあいだがあるだけだ。
自然なんて存在しない。

空気って本当にあるの?
空気は概念だから実在しない。現実には窒素と酸素と二酸化炭素とアルゴンと水蒸気が混ざっている。

土って本当にあるの?
土は概念だから実在しない。現実には鉱物と植物と動物と微生物や細菌、それらの死骸の堆積したものだ。

水って本当にあるの?
純水はつくれるが、それは自然界には存在しない。現実の水には必ず何かが溶けていて水の中で関係性をつくっている。

実はこれらは物質の概念的な関係性を結んでいる言葉なので現実には存在してない。だから現実世界を探しても見つからないし、探さなくとも私たちの概念世界に言葉や群れとして存在している。

自然生命も空気も土も水も、群れという繋がりは頭の中の概念世界に既にあるのだから、群れとわたしのあいだには繋がり(nag)がすでにある。

大事なことだから太字で言いたい。

「繋がりはすでにある」

宮沢賢治が星空を見上げて頭の中で星々を繋げたように、自分が群れ的概念に想いを巡らせて、頭の中でそれらを繋げれば良いだけだろう。これを東洋的には縁を伸ばすという。

私は酒を飲むことで繋がりを造るのだろうと思っていた。
それは違っていた。

酒を飲むことですでに繋がっていることを思い出す」が正しかった。

繋がりに気付ければ酒を飲んでも飲まなくてもいい。繋がりを思い出すファクターは人それぞれ違っていい。この考え方は酒を飲む人も飲まない人も子供も大人も老人も死者もみんな包んでいる。とても概念と現実と時間に繋がりがある考え方だ。

子供のころは知っていたはずだし、老人になったらおのずと気付くのかも知れない。しかしどうしても成長して自我を持ち、自分で外の世界へ冒険に出て、現代社会で生きていると繋がりがあることを忘れてしまう。孤独になってしまう。

そんなとき繋がりを思い出すきっかけになる日本酒があってもよいだろう。そんなイトナミの酒がいい。

自分の環世界を正しく見て、そこからものをつくるアルケミストの冒険は、すでにあることを知る冒険。とても険しいね。

酒造りの現実は大変だ。概念世界の話は夢物語で終われるが、現実はそうもいかない。技術に落とし込むことも、言葉にして伝えることも、どちらにも成功と失敗がある。信じるものが崩れていくと私は不安や孤独に落ちいってしまう。

ただ日本酒を好きなままで良かった。気付かなければよかった。実現しようと思わなければよかった。伝えずに黙っていた方が良かった。そんな強い風に吹き飛ばされそうになる。そんな風に耐えながら険しい山を登りながら滑り落ちながら自分と内省を続けていく。

そんなかで繋がりは既にあるんだと思えたことはとても大きかった。すでに繋がっているのならば、喜びはもちろん、哀しみや苦しみさえも分散されるのだろうか。そう思える人たちと酒を飲みたくなった。

次回は土の繋がりを探す大地編。



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