いわゆるひとつのメークドラマ6 日本の酒の縁起儀礼 御神酒編
日本の酒の縁起儀礼 御神酒その1 はじめに
約3000~2600年前、日本ではじめての稲作国家が出雲で誕生します。
それは「縄文人が稲作を始めました」ではなく、縄文人、渡来人が入り交ざって稲作をした国家です
※※記紀前の話なので、とうぜん正史ではありません。出雲の伝承より取っているので、そのあたり各々ご判断ください※※
はじめはもちろん縄文集落でした。
宍道湖、神西湖周辺にはたくさん遺跡が出ています。
そこに渡来人が多く移住して、徐々に徐々に稲作が始まったのではないかと思われます。
当時の出雲は、神西湖と神戸川、宍道湖と斐伊川、中海と境水道が繋がり、島根半島は完全な島の形をしていました。
島根半島は、山と日本海側はリアス式海岸、内側には大規模な湿地帯と日本列島がある豊穣の地。
水と海産資源に富んだこの地域には、多くのホモ・サピエンス(のちの縄文人)が住み着きました。
彼らはこのような湿地帯(オアシス)を探して移動しています。
地中海も日本もこの島根も、人の住み着くところは湿地帯です。
出雲の湿地帯ではイネ科のマコモが多く自生していたと言われ、大量のワイルドライス(穀物)も収集できたと思われます。
時代が進むと、大陸から近く、隠岐、壱岐、対馬などへ入った渡来人は出雲の地にも到来します。
黒曜石などの貿易が盛んになる頃です。
稲作、酒造、織物、鉄、薬、いろいろなものが伝わったでしょうね。
その時には、斐伊川からの土砂の流入により、現在の斐川に出雲平野が出来ていきます。
もともと湿地帯だったところに土砂がたまり、水が豊富で、稲作に適した平地が作られます。
後に、たたら製鉄がはじまるように、出雲では鉄も取ることができました。
もともと水、湿地で狩猟採集に適した環境だった出雲に、米、鉄、そして翡翠(ヒスイ)や瑪瑙(メノウ)が加わり、資源の豊富なこの出雲地帯は大きな発展を遂げました。
出雲の遺跡や四隅突出古墳がそれを物語っていますね。
王と神の大神
農耕を始めると、民を導く、穀物を配分する王が生まれます。
農耕社会の王は、亡くなると鳥葬され、山の中でも聖性が強そうな巨石や巨木の下に残った骨を埋められます。
それは王の再生や鎮魂を願ってのことでした。
もともと山を信仰していた狩猟採取の人たちは、山の中に生命の共同体、神や精霊、魂があると感じていたようです。
その近くに骨を埋めれば、別の形で転生するかもしれない。
当時の人たちはそう考えたので しょう。
仏教以前では人が亡くなると土葬されます。
そして遺体は分解者によって土になることをよく知っていました。
(心臓の強い人は⇒九相図wiki)
そして、その土葬した付近には、新たな生命が生まれることも体感しています。
生命は山から生まれて、山に帰ることは当然のことだったのです。
そして出雲ではもともと、山の中に、蛇がとぐろを巻いて眠っているとして、山を信仰していました。
ヘビは、水路や雷と同じ形をしていますから、野生の視線を持った古代人にとってヘビは人間と縁起させやすい存在だったのでしょうね。
あれもこれもヘビ
ヘビの交尾が縁起的な形をしていたり、ウミヘビが大陸までの案内人だったりと、ヘビは新しい何かをもたらす縁起の良い生物として、古代の人たちに大人気でした。
龍も同じものでヘビを神格化したものです。
しめ縄もヘビ説が強いですね。
紙垂(しで)は精液だったり雷だったり、何れにせよ新しいものを生み出すものの形をしています。
雷は空気中の窒素(N2)を破壊し、雨とともに土壌に還元するため、豊穣に繋がります。
雷でキノコも生えるって言いますよね。
出雲には、山とそこに住むヘビ状の神が、新たな生命を産むという龍蛇信仰がありました。
水や雷を司るヘビの近くに王の骨を埋めれば再生するかもしれない。
それが先人の野生の思考だったのです。
それは農耕時代に混血しても引き継がれ、農耕の王の墓は山につくられることになりました。
なんなら墓のために山も造ります。
山の中でも、特に生命力の強そうな巨石(イワクラ・石座)や巨木(ヒノキ・霊の樹)の近くに骨を埋めれば、王がまた復活するとされ、この風習が各地に広がります。古代人の共通の思想なのでしょう。
そのように王が埋められた山はカンナビ山と呼ばれ、聖地となります。
後の古墳や祠もそうですね。王は山に存在する。
強力な王ほど高い山に眠っています。
遺体に水銀朱を飲ませて保存したり、棺を朱色に塗って、子宮をイミテーションしたり。様々な墓の形ができてきます。
ここでは重要なことが起こります。
王を山の中に眠らせる。
それは人間の祖先が、神様の仲間入りを果たしたことを意味します。
これは祖霊や氏神という神様ですね。
巨石や巨木という聖なる地に祖霊は存在しています。
山の神様の新メンバー、ご先祖さまの誕生です。
やがて出雲で渡来系の勢力が強くなり、そこから逃げて移動した出雲系の集団が、新潟や北陸、長野、九州など各地へ拡散していきます。
各地の民族もこのような稲作国家と出雲信仰が伝わっていきます。
そこからは渡来系、縄文系それぞれが入り乱れ、戦いの歴史である古墳時代が始まり、ヤマト王権、大和朝廷の前進が誕生し、現在に至ります。
この過程で狩猟採集の縄文系、稲作や漁業、織物、酒造、鉄など様々な文化風習民族が縁起して、日本が混血化していきます。
それを神話では天津神(あまつかみ)や国津神(くにつかみ)や海神(わだつみ)というように表現し、それぞれの神が入り乱れて縁起し、合体していきます。
こうして日本に八百万の神(数多くの神)が生まれます。
こうなってくると各地で大規模な稲作と、それによる統治が行われているので、日本の神は稲作の神であるという面が強くなります。
後の大名でも、石(こく)という米の単位で、その大名の力を示すように、日本=稲作、日本の神=豊穣の神の図式が強くなっていきますよね。
もちろん各地ではそれぞれの山神や海神を信仰していますが、中央政権としては豊穣の神を主に信仰します。
農耕は人手を必要とします。人は収穫した穀物の配分によって管理されます。
農耕するということは、国をつくることとおなじ意味を持ちます。
国をつくるということは、共通の方向性を持つことです。
それは、だれもが共通する神を持つこと。
共通の神をつくることを意味します。
いま目の前の世界にあるすべてのものを縁起させた存在が、すべてのものに共通する神となる。
それが日本の神、天照大神です。
精霊も山神も海神も先祖もタカミムス匕もヒルメも出雲の大国主も全てを包んだ日本の神です。
全ての神を集合させた天照(アマテラス)の帝は超高次元の絶対神
その名の通り、天、山、海、稲の全てを照らし縁を発生させる神となった
それでは、現実に私たちすべてに共通する神を、縁起でつくってみましょう。
日本の酒の縁起儀礼 御神酒その2 命の贈与
1、田植え
まずは稲作です。山に眠るご先祖さまが残してくれた田んぼや水路の整備をします。
田んぼの土や水は山から供給されていますね。
その土のひとかけら、その水の中には、多くの生物、ご先祖さま、神さまの一部が溶けて残っている。自分もいずれ、その土と水になるんだろうか。
昔の人はそんな事も考えていたでしょうかね。
そうこうしていると、山にいるご先祖様がヤマザクラを咲かせて、田植えの季節を知らせてくれました(この時の様子が田楽・能、翁のはじまりとされる)。
村人みんなで田植えをします。
2,夏祭り
夏、稲が育ち出穂します。稲にデンプンが充填される器、穂が形成されます。
夏至、七夕、お盆。それは太陽の力が強まり、生物の力が強まる夏。
この頃には盛大に夏祭りが行われます。
それは夏の生命力の高まりと、それによる豊作の秋を祈願するお祭りのように感じられます。
ここで酒による贈与の縁起儀礼が行われます。
神社では、その土地で作られた、酒・餅・米、そして山川海のものが神饌として供えられます。
それらはもともと、その土地と神から人間に贈与されたものです。
【最初の贈与】神(自然・ご先祖さま)⇒人間界へ米・作物の贈与
今度は人間から自然と神に贈与しなければ、秋の豊作は約束されません。
神から頂いた贈与の米に、人間の贈与の霊を付与してお返ししなければ縁が切れてしまいます。
人間界で最も大切な存在は子供の産める女性です(現代の性差別のような意図はありません。昔の人の純粋な話です)。
この女性は、神から贈与された米を噛み、命を与えます。
【贈与の儀礼1】子供の産める女性⇒米に命の贈与
すると、米に贈与された命は、発酵という奇跡の形で姿をあらわし、酒が生まれます。
この米に生命を宿しすことに成功した女性は、巫女やシャーマンと呼ばれ、神との対話を許される存在となります。
巫女は、神様のいるところに、酒を贈与しに向かいます。
神様に酒を贈与する日のことを【祭り】といいますね。
行われるのは、田植えの春、収穫の前の夏、増える前の冬です。
酒を神に贈与したい。
けど神や自然は私たちの脳内にいる概念なので、どこにいるのかわかりません。
しかし唯一、私たちは神のいる場所を知っています。
それは先述の、ご先祖さまの骨が埋められた石座や祠といった聖地です。
巫女はそこに出向き、酒を代表とした神饌をお供えし、ご先祖様に対して、祈りを贈与します。
その祈りとは、作物を贈与してもたった感謝と、次なる豊穣のお願いです。
ここでの祈りは、五穀豊穣、子孫繁栄、天下泰平が基本ですね。
ここで巫女は神と交信し、神のお告げ(豊穣の約束)を占いとして、民を動かします。
卑弥呼(日巫女)を想像するといいですね。
ヒのミコは各地に存在してたでしょう。
これで神から贈与された作物の一部が、女性の命という贈与の霊を伴って神に返還されました。
神は人間界から命を贈与されたので、また人間界に贈与しなければいけなくなりました。
【贈与の儀礼2】巫女⇒神へ酒(米+命)の贈与
【最初の贈与へ戻る】神(自然・ご先祖さま)⇒人間界へ米・作物の贈与
これが、酒を通じた人間界と自然界の贈与の縁起儀礼です。
神(米)と女性が贈与によって縁起し、酒と時間が生まれていますね。
この繰り返しによって、日本という歴史が続いています。
この贈与の縁起儀礼システムは2000年以上の実績を叩き出しました。
時代が進むと、穀物は増え、神も国も巨大化しました。
そのため日本は男系社会へと変化し、巫女の役割は天皇や王、神主へと代わっていきます。
ここでもう一つ。
稲作の過程で人間は自然界へ贈与しています。
田んぼビオトープ。
当時の田んぼは当然、無農薬です。
田んぼは米を得るために存在していますが、一方で、多くの生命を産むビオトープとしても機能していることも知られています。
人間が生物に田んぼという環境を贈与し、田んぼに生きる生物は、田んぼに有機物を贈与して、米の実りを助けています。
昔の田んぼは自然界への湿地帯(オアシス)の贈与とも言える。
無農薬米=他生物への贈与を果たした米である。
その米で作った酒は環境に対して対称性のある酒だから、縁も営みも生まれる良い酒だろう。
そんな考えのオーガニックにはとても惹かれます。
無農薬米=品質の良い米、良い酒という理屈は根拠がなく納得できませんでした。しかしこの考えであれば納得できる。
縁起と贈与をきっかけに米に対する考え方も変わってきました。
日本の酒の縁起儀礼 御神酒その3 直会
神から贈与された米に対し、人間界で最も重要な存在である子供の産める女性(巫女)が命を贈与します。
その結果、米は命を宿して、酒になります。
巫女は、その酒を神(ご先祖さま)の眠る聖地に贈与する。
その際には五穀豊穣、子孫繁栄のお願いをしています。
これが自然界と人間界の贈与の縁起儀礼です。
神は米となり、酒となり、また神のもとに還っていきました。
ここではとても重要なことが起こっています。
私たちの脳内で縁起によってつくられた【神】という感知することの出来ない概念が、【酒】という五感で感知できる形に変換されていることです。
神や自然でもあり、人間でもある酒は、ここで自然界と人間界の縁をつなぐ両義的存在として成立したことがわかります。
神や自然が、誰にでも感知できる酒に具現化された。
これを御神酒(おみき)と言います。
御神酒はとても大きな意味を持っています。
人間は概念を共有すると群れになる。
概念は神や自然のように、縁起の到達点であればあるほど、その群れを成す力は巨大なものとなります。
神が感知できるように形となったものは御神体と呼ばれ、それは神そのものです。
私たちは御神酒を飲むことで、神や自然と一体となることが出来るのです。
神様に酒を贈与する日、お祭りの日。贈与が終わると、私たちは神のいる場所に向かいます。
最初は山のなかの石座や聖地だったでしょう。
後の時代では神社に祈りに行きますね。
時代が進むと神と国が巨大化し、自然界と人間界に距離が置かれます。
聖地には立ち入りが禁止されるようになったり、わかりやすく存在させる必要が出てきます。
王は正式な血統を民に知らしめなくてはなりません。
その時にできてきたものが神社です。
神社は自然界と人間界の境、山の麓に設置されました。
祭りの日、神への酒の贈与が終わったあと、私たちは神社にお参りに行きます。
そこで豊作の祈願をし、酒をつくり、神に祈りを捧げた巫女から、御神酒を飲まされます。
つまり、神を飲まされるのです。
私たち人間が、神の御神体である御神酒を飲むことによって、人と神が縁起して一体化します。
これを神人共食の儀、直会(なおらい)といいます。
直会の言葉は、嘗め合い、舐め合いから来ており、同じものを共有することで、互いに直り合うことを意味します。
別の呼び方では「清める」という言葉が当てはまるでしょうね。
御神酒を飲む事によって人は神を体に取り込み、その土地、その神、その先祖と自分が直り合い、同一化するのです。
そして御神酒はとうぜんお酒なのでアルコールを含んでいます。
酒はその味で神の存在を味覚、嗅覚、触覚(熱くなる)に訴えかけ、御神酒を飲むロケーションである神社などの風景と静寂な自然音は自然や神の荘厳さを感じさせます。
酒と神社は、五感によって、その土地の民の脳内に縁起を起こし、その存在を知らしめているようですね。
御神酒を飲んだ人々は、その土地の神と同化し、直り合います。
そしてここでは神の共有がなされます。
私が神と一体になっている、あなたと神も一体になっている。
では、私たちは同じ神をもつ、同じ縁の中にいる人間ですね。
このように、同じ神を共有することで、人間は群れになっていきました。
巫女が神に贈与した御神酒を飲むことで人々は神を共有し、人と神、人と人とが直り合います。
御神酒を飲み、直り合うことによって、身分や名前が忘却されます。
己という存在を忘れ、もっと大きな神や自然といったものの一部となる。
個を忘れ、群れの一員として自分が存在していることを知ることが出来ます。
神のもとには平等というか、神のもとでは個を失うと言った状況です。
このことはメークドラマ2の縁の存在で可視化した世界と、とてもよく似ています。
縁起の究極体である神を飲むことで、言葉の世界から縁の世界に身を置くことができるようになる。
そのような意味で、御神酒は非常に大きな力を持っていますね。
【贈与の儀礼3 直会】巫女から人間への御神酒の贈与
サラリーマン同士で酒を飲んだり、旅行先で地酒を飲んだり、家を建てる前に酒をまいたり、人間が酒を飲む理由が全てここに詰まっています。
私たちは、神や自然といった概念を共有し、共有できた相手と群れになって、ともに未来を創造するために酒を造り、飲んできました。
それを日本という土地と神に対して行っていたので、米からできる酒を日本酒と呼んでいるんですね。
いままでのまとめ
人間が贈与によって神と関係性を造っていることがわかりますね。
・神(自然・ご先祖さま)に祈りの贈与を与える酒
・神と人、人と人とが直り合える酒
・万物に共通する点(縁)を酒にする
これを実現していくことが私の酒造りなのでしょう。
こうなると私(杜氏)は巫女の立場に存在していることがわかります。
私は酒造りをしている限り、人でも神でもない、どちらでもない両義的な場所に存在することになりますね(現実では働き蜂です)。
私はどちらにも属してないので、人と自然、どちらかだけ良いことには全く価値を見いだせません。
だから酒造りにおいては、周りの言うことを聞かないんですね。
独自路線の酒造りで日本酒業界から浮いていますし、私の道理は周囲の人からは理解しにくいものがあるようです。
神も人も制御する。
インディアンはこのような両義的存在を人喰い(カンニバル)といったそうです。
目的のためなら神に人を食わせるし、神を人に食わすこともする。
カンニバルのイニシエーション(通過儀礼)を経て、存在していられるかどうか。
それがイトナミを形にできる存在かどうかの違いでしょうね。
イトナミを造るものはイトナミの環の中には入れないものです。
それは通常の人から見たら怖いものかもしれません。
カンニバルに生贄として神に差し出されるかもしれませんからね。
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