いわゆるひとつのメークドラマ4 縁起と贈与
縁起と贈与
先人は縁を起こすために儀礼を行った。では具体的に何を行うことが儀礼なのか。
先人たちは縁を起こす具体的行動をはるか昔に解き明かしていました。
それは贈与(ぞうよ)です。
先人たちは、贈与が縁を起こす力を持っていることを突きとめ、そして贈与から生まれた縁起はとても良い結果をもたらすことを知りました。
贈与はプレゼントのような物質的なやり取りだけではなく、助け合い、協力のような精神的行動でも表現されます。
贈与と同じような意味合いで、交換という言葉があります。
贈与は純粋で見返りを求めない行動で、交換は見返りありきの行動です。
交換がその場で終わる取り引きであることに対し、贈与が縁を起こす大きな力を秘めていることを先人たちは感じていました。
狩猟採集民は、貰ったら返さなければならないという野生のルールである返報性と対称性に縛られています。
奪う者は絶滅するリスクをもつことを知っているため、一方的な収奪は本能が拒絶します。
贈与は、そのような野生に生きる人の心に「返さなければならない」という強い欲求を生み出します。
交換は、A⇔Bのような直接的な取引きです。
そのため交換は極めて短期的に行われます。
私たちがコンビニで買い物することと同じですね。
短期間のトレードなので、そこに時間と縁はほとんど発生しません。
一方、贈与は無償の贈り物です。
そのため贈与は、直接的なやり取りではなく、А→B、B→C、C→Аのように、間接的な取引きとなります。
贈与は新たな存在である第三者・Cを生み出していることがわかります。
このことを私たちは縁と呼んでいますね。
さらにそれと同時に、時間も発生していることがわかります。
贈与と縁は、時間をつくり出します。
かわいいコンビニの店員さんと仲良くなりたいなら、ただレジに並んで買い物(交換)しているだけでは何も起きません。
その店員さんではなく、隣のレジのパートのおばちゃんになにか贈与して仲良くなればいいのです。
そこからかわいい店員さんとの縁が始まります。
これが贈与が縁起を発生させる仕組み、贈与の三角関係です。
交換の最小単位は2者間。
贈与の最小単位は3者間から始まります。
このように贈与は新たな存在と時間を発生させます。
贈与が縁を起こす力を持っていることがわかりますね。
贈与の霊
贈与が生み出す縁の威力は私たちの日常でも想像できると思います。
山で暮らすAさんは、里で暮らすBさんに野菜をいっぱい贈与します。
里で暮らすBさんは、漁村で暮らすCさんに野菜をおすそ分けで贈与します。
漁村で暮らすCさんは、Bさんに釣った魚をいっぱい贈与します。
Bさんは、魚を干して、Aさんにおすそ分けで贈与します。
Aさんの目線では、野菜は一方的な贈与だったのに、時間が経過すると、魚になって帰って来ています。
傷みやすい余った野菜がその姿を変えて、保存できる魚になって帰ってきて、とても喜びました。
Aさんの贈与がA、B、Cさんに縁を起こして関係性が生まれていることがわかります。
А→B、B→C、C→А
A→D、D→E、E→F、F→D、D→A
Aさんの贈与はさらに縁は連鎖を起こし、Dさん、Eさん、Fさんとどんどん広がっていきます。
Aさんの贈与が新たな人や物を生み、その過程が時間を発生させて営みをつくっています。
これが私たちの生きる世界です。
レヴィ・ストロースは、贈与の本質は贈り物ではなく、この時間にあるとして、これを贈与の霊と呼びました。
贈与が発生させる時間には、自らの霊がやどり、贈り物とともに相手に乗り移ると言います。
わかりやすく、この贈与の霊を現代的な言葉にすると、愛でしょうね。
愛については「イトナミコラム3 それでも日本酒にイエスという」で取り上げました。
愛が、心の情緒から発生した純粋なものであれば、相手に伝わる(贈与される)。
そうエーリック・フロム先生が教えてくれました。
また、贈与された純粋な愛、すなわち与えられた愛は決して失われない。
与えられた愛はあなたを生かし、あなたはまた誰かに愛を与えようとするだろうと、フランクル先生が教えてくれました。
純粋な贈与の形をした愛。それは母が子供に与える母性愛、子供が母親に与える愛は、見返りのない純粋な贈与ですよね。
先人たちは対称性のある野生の掟に沿って生きるため、自分の中に霊が過剰となって留まることを恐れました(良い霊も悪い霊も)。
富が貯まったり、悪いことが立て続けに起こると、贈与によって霊を排出しようと考えました。
霊を愛だと思うと理解できると思います。
贈与の儀礼
贈与の関係は縁の関係。
人と人だけではなく、人と動植物、人と自然、人と神などあるゆるものの間で成立します。
人と人との贈与は、その贈り物の足跡を追っていけば、その流れは確認ができるし、人の感情も確認できますね。
しかし自然や神となると、贈与の結果の確認が取れませんし、自然や神がどこにいるかもわからないので、贈与の対象にとることも難易度が上がります。
そこで行われたことが贈与の儀礼です。
儀礼は、神や自然に対して贈与する行動とも言えるでしょう。
先人たちは、人間界から自然界への贈与によって、神や自然との間に縁を起こそうと考えたのです。
縁が起これば、神や自然と関係性をもったり、便宜を図ってもらえます。
贈与の作法は時代と地域民族によってバラエティに富んでいます。
それは贈与の対象が、五感で認知できない神や自然であるため、儀礼の形式がその土地に大きく影響を受けるからです。
おおむね儀礼が行われる場所は地盤の高い場所、硬い場所、境、山、山の中の巨石、巨木など神や自然の力が強いであろう聖地です。
贈与されるものはその時代、地域民族にとって大事なものですね。
人間の世界でいちばん大事なものは順に出産可能な女性、子どもです。
(※昔の話です。わたしの個人的意見でもありません。)
俗に言う生贄(サクリファイス)ですね。
狩猟採集民の小規模集落では血を入れ替えるために、他集落の民を祭りの儀礼でもてなして、村の女性を贈与していました。
女性の贈与によって血が分散されます。
聖書では、アブラハムが息子を神に捧げる描写がありますね。
アブラハムは息子イサクを本気で捧げようとしたところで「お前の信仰心を認めよう」と神の声を聞きます。
そこで息子ではなく、代わりに仔牛を生贄にすることを許されました(信心があれば生贄はほどほどで良いことを示している)。
仔牛かわいそう…。
このように生贄は女性、子どもから、家畜、人を型どった土偶や埴輪、銅鐸や鏡、剣、装飾品、食べ物など、時代とともに変化していきました。
日本の儀礼、祭りであれば贈与の神饌(しんせん・供え物)は酒と米と餅、山川海で取れるものですね。
このように儀礼は、人から神や自然に贈与する行為だということがわかりますね。
人から自然への贈与で縁起が起こり、色々なものが合体します。
日本ではその縁の力をムスヒ(産霊)、ウブスナ(産土・ウムスナ)などと呼びました。
人間と自然をムスヒが、縁結びという言葉となりました。
このように先人たちは贈与の儀礼を行うことで縁を起こしました。
縁起は連鎖を起こして時間を生み出し、そこに生命の贈与関係が複雑に絡みあって、営みとなりました。
私たちは縁がつくった時間を歴史と呼び、その縁の環の中で生きています。
縁起は東洋では古くから信じられていました。
西洋でも縁起は言葉を変えて、ヘーゲルの弁証法や両義性の創造(アンチとアンチテーゼによるアウフヘーベン)。
マルセル・モースの贈与論やジョルジュ・バタイユ。
献身のシモーヌ。
愛と贈与を行動で示す狩猟採集民やインディアン。
そこに発生する縁と星の時間。
レヴィストロースの贈与の霊。
などなど縁起の仕組みが色々なところで説明されていますね。
こういうことをもっと早く知っていれば良かったです。
学生時代まったく勉强しなかったツケがいまここできています。
30歳を超えて勉強し始めたので、本を読むのが大変です。
時代は、贈与から交換へ、交換から収奪へと向かっています。
人間と自然の関係はもう収奪ベースになっていますし、人から人も収奪で動いています。
穀物農耕への移行が遅く、島国、寒冷地、過酷な自然環境という条件が揃っている日本。
その環境は、日本が贈与から収奪への向かう変化スピードを緩めたものの、現代日本はもはや収奪の国になってしまっているのでしょうか。
縁を予感させる酒、イトナミをつくる酒は、そのスピードを緩めることができるのか。
贈与や縁という言葉がなくなった世界に、どのような景色が広がっているでしょう。
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