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[連載10]アペリチッタの弟子たち~問診評③~トリアージ/既にあるものをなかったことにはできない?

毎晩夢にでてくるようになった魔法使いアペリチッタの書いた本、という体裁で語られるこの連載は、ことば、こころ、からだ、よのなか、などに関するエッセーになっています。

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5 トリアージ
 
「開業医になっても防災訓練に参加するんだ」
という最初のぼくの驚きは少しとんちんかんなものだったに違いない。
 勤務医のときも毎年防災訓練で「トリアージ」をやった。
 だが災害時に、大きな病院に患者がはこばれてきたとき、「そこの病院で」どういう順番で治療にあたるか?を訓練するのが、大きな病院でやるべきトリアージの訓練だ。
 だが、ぼくのいた大きな病院では、あたかも自分たちが、災害の現場にいるかのように想定し、「この人は救急搬送、この人は帰宅」とかやっていた。こちらのほうが、むしろとんちんかんだ。
 自分たちは、受傷者を救急搬送するほうではなく、受け入れるほうなのだから。現場でトリアージされ、病院に搬送されてきた患者たちを、またそこでトリアージして、治療の順番をきめる、そのような訓練をしなければならないだろうに。だが、それはされていなかったのだった。
 トリアージは、受傷者(あるいは病人)の数に対して、医療資源(人や物資など)が不足しているとき、いかにできるだけ多くの人を救うか?合理的に行動するためのものだ。
 それゆえ、少しのどかな語感すら感じる「トリアージ」であるが、「命の選択をする」ことはやむをえない、という冷厳な考え方がその出発点から含まれている。
 呼吸をしてない人は「黒」である。「トリアージ」では、大災害のとき、呼吸してない人にCPR(心肺蘇生)をおこなうことは、あやまち、と断言される。
 その後、重症度において「赤」(緊急の救命救急を要する)、「黄色」(準救急)、「緑」(急を要しない)と「トリアージ」がおこなわれる。
 だから、「トリアージ」は、周囲の状況(受傷者数、医療資源の質量)に応じて、時と場所によって様々だ。
 コロナウイルスのパンデミックの際、60歳以上には人工呼吸器による治療をおこなわないとした、イタリアの方針も「トリアージ」の考えによる。
 途上国では、受傷してから救急車で病院にくるまで、ずいぶん時間がかかる。なので、途上国の「救急病院」は意外に重傷者はやってこない。死と生の境界線上にあるような受傷者は、既に死んでいるからである。これを「自然のトリアージ」と呼んだりする。
 「命の選択」である、トリアージ。
 だが、ぼくが受けた、トリアージの訓練では、こんなことも指導された。
「実際の災害現場では、『黒』のついた人は、そこに放置されるという可能性が高い。現場が混乱しているほど、それはやむをえない。ただ、後から遺族の人が遺体をひきとりにこられたとき、亡くなった時の状況を少しでも言えるのと言えないのとでは、違う。どんなに少ない情報でもいい。遺体の発見場所や時刻が、『黒』の紙にメモされているだけで、どんなに遺族は慰められるか」と。
 
 さて、ここでは、さらに「高齢者医療における、トリアージ」について問題提起をしたいと思う。
 まず、「3、3、3」ルールというものをご存じだろうか?
 これは、「呼吸をしなければ3分、水をのまなければ3日、食べ物をたべなければ3週間、で人の命は失われる」というものだ。「呼吸をしなければ3分」というのはAEDの必要性で、「水をのまなければ3日」というのは、災害時72時間以上救助されないと存命率は下がる、ということで、一般的にも多少なじみがあるかもしれない。しかし、最後の「食物がなければ3週間」というのは、あまり意識されてないと思う。
 これは、「高齢者の老衰」と関係する。
 ひとつの例を示そう。
 Aさん。85歳の男性。要介護5。くりかえす脳梗塞で、くりかえし入退院をくりかえしているうちに、廃用症候群。昨年、11月に病院より施設に入居。そのときは、胃ろうを挿入されていた。
 嚥下筋のおとろえ(脳梗塞の後遺症+低栄養)のため、誤嚥性肺炎をおこしやすいので食事を出すのは禁忌、と病院で診断され、病院では食事はなし。
 ただ、奇妙なことは、頻回に唾液を吸引する必要はなかった、ということだった。唾液は、1日に計500mlから1000mlでてきて、それをのみこまなければならない。唾液さえのみこめないと、喉の唾液がたまり、1日に何回もそれを外から吸引しなければならない(これを「吸痰」というところが公的機関をふくめてほとんどだが、正確には、「唾液吸引」といわねばならない)が、彼は、自分で唾液はのみこめていた。
 唾液を呑み込むことのできるAさんは、施設にはいると、水分や、嚥下食というものを少しずつ摂取できた。前の病院では、機械的に「食事を出すのは禁忌」とされていたのではないか?
 だが、Aさんは、12月13日に急に意識を失った。傍目には、急に、だったかもしれないが、見えないところで、その準備は進んでいた。「食物をとらねば3週間」というが、実際の場面では、少しずつ、食べ物は摂っている。しかし、必要量までは届かない。少しずつ、貯金からお金がおろされ残高が減っていくように、彼の「3週間」は数カ月まで延長された。しかし、ついには、貯金はなくなり、12月13日がきたのである。
 彼は老人施設に入居していて、あらかじめ、むやみな点滴はしない、看取りはする、という方針が入所時に家族と施設の間で確認されていた。
意識を失ったあと、点滴で彼は、少し状態が持ち直した。ここで、
(1)高カロリー輸液または胃ろうで、十分な栄養を入れはじめれば、「3週間で命をおとす」ということはなくなる。これは、多くの病院で行われていることである。
(2)栄養は十分でなくても、十分な水分を点滴すれば、「3日で命をおとす」ことはなくても、「3週間で命をおとす」だろう。
(3)不十分ではあるが、少しずつ点滴をおこなう。この場合、「3日で命をおとす」ことはなくても、3日と少し、で命をおとすだろう(貯金の目減りの比喩は、必要水分量についてもあてはまる)。
 この3つの選択が家族に提示された。
 どれを選んでも、悲しい選択である。3つ以外の選択はないのか?
そして、家族は、(3)を選ばれた。(3)の点滴は、中途半端にも思われる。しかし、少量の点滴をおこなうことで、時に、より穏やかに死をむかえることができるのだ。点滴をする血管探しで、彼の体を何回も「針で刺す」必要はない。腹部などへの 「皮下注射」でけっこうな点滴量を体にいれられるのだ。
 そして、12月27日に彼は息をひきとった。最後の2週間は、文字どおりベッドに寝たきり。しかし、ご家族やスタッフは、呼びかけにAさんがうなづいてくれた、と彼を見守り続けた。
 一連の経過で、トリアージを行うことはなかった。トリアージできることとできないことがあるのだ。
 
「高齢者救急」という問題がある。
 三次救急とよばれ、交通事故や災害時の患者の受け入れ、緊急手術の必要な患者に対応しているところでも、その5割以上が、70歳以上の高齢者の救急患者だという。
 風邪症候群や、薬がなくなったから来た、というような患者は、当然、三次救急病院に来る対象ではない。
 だが、70歳以上の高齢者の救急患者が大半を占めるという三次救急医療の現状は、「救急医療」に対し高い志をもった医師たちの心を折りかねない、という影響を与えているという。
 映画やTVでのER(救急室)のイメージと、実際の現場は、ずいぶん違うことを認め、高齢者救急を楽しめるようにならないと、本物の救急医にはなれないようだ。
 さて、高齢者は、訴えが漠然で、痛みや症状が重症でもあいまいなため、診断に熟練した救急医でも難しいという。
 突然の不穏は、安易に認知症のためと判断しないこと。
 急速なADL低下や、経口摂取の低下には注意がいること。
 酸素投与が必要な状態になったときは、なんらかの大きな変化が隠れていると考えるべきということ。
 転倒がおきたときは、なぜ転倒したのか?単なる、足のもつれではなく、なにか背後にかくれていないか?考えること。
 つらそう。よびかけに反応が悪い。呼吸がくるしそう。いつもより元気がない。なんか、今日は、変。
「いったい、何がおこったのでしょう?」
 熟練した「高齢者救急」の専門医でも、様々な検査をしなければわからない、これらの原因を、往診の医者は、「顔をみただけで」つきとめることを、しばしば求められる。
 だが「往診医は、診断できない」ということが経験でわかってくると、介護士や看護師は「救急車でとにかく搬送」を主張する。
 これらへの対応は、難しく、個々のケース、個々の状況で、ひとつひとつ考えていくしかない。
 
 最近聞く「フレイル」という言葉がある。
 いかに、要介護状態にならないように、予防をするか?
 それについては、いろいろ話題になり議論される。
 実は、今まで書いてきた「高齢者救急」も、要介護状態になる前の高齢者が対象だ。つまり「フレイル」のような、まだ、人々の興味をかろうじてとらえるものだ(若い救急医にとってはどうか?だが)。
 しかし、要介護状態になった後の人の「救急」というのは、興味の対象にはならない。
「老人施設入居中の肺炎の方は、当院では入院をおことわりします」
「老人施設で、急に死亡された方の、死亡診断書は当院ではお書きいたしません」
 要介護状態になった後の人の「救急」は、そもそもいったい存在するのだろうか?
 そこで必要なのは、「救命救急」ではなく、「救迷救窮」に他ならない。言いかえれば、建前ではおこなわないほうがいいとされているが、実際は普通におこなわれている「トリアージ」をめぐる、葛藤にどう決着をつけるか?である。
 このことについての議論は、されることないし、することは「高齢者救急」よりも、さらに医学的な興味はもたれないのだ。
判断は、難しく、個々のケース、個々の状況で、ひとつひとつ考えていくしかない、というのが、現状での、ぼくの結論だ。
 ただ、要介護状態になったということは、がんの終末期ほど余生は短くはないけれども、広い意味では(余生は数カ月単位ではなく、数年間かもしれないが)終末期のような緩和ケアが求められると直観できる。
 
6 既にあるものをなかったことにはできない?
 
 クリニックの建物も、築後10年にもなると、あちこちが痛んでくる。
 例えば、電球がきれてくる、切れ始めると、次々にきれてくるので、少しやっかいだ。
 電球を変えるときには、蛍光電球でなくLED電球を、と周囲がすすめる。電球交換をずっとしないでいいから、と。
 毎日使っているわけではないから、蛍光電球でもいいでは?とか、今までその都度変えて問題なかったでは?と反論しても、「いいものができたじゃあないか」と、結局LED電球に替えることになる。
 なくなったものは、とりもどせない。
 震災や災害で、失われた命、家屋、生活は、永久にもどらない。そこまで、たいそうな喪失感でなくても、家族や友人の死、死亡までいかなくても病気になったとか、要介護状態になったとか。あるいは、就職、転勤、結婚、離婚、失業など、既にあるものが失われたとき、大なり小なりの喪失感を覚え、それに対応を迫られる。
 では、既にあるものを、意識的に、「わざわざ」なし、にするとき、そのような喪失感にさいなまれるだろうか?
 LED電球がなくて、どれだけの喪失感にさいなまれるだろうか?
 
 他に例をあげるなら、たとえば、ダビンチによるロボット手術。
 ロボット手術は、(腹腔鏡手術がそうであるように)手術による治療成績も向上させなければ、合併症の頻度も減少させないし、医療の人手不足も解消しない。つまり、医療に対して、貢献度はない。
 もし、遠隔操作の技術の発展のため、進化をとめてはいけない、技術の進歩のために必要、というのなら、遠隔操作でロボットに手術をさせるのではなく、遠隔操作でロボットに車を運転させたり、建築をさせたり、あるいは演奏とか演技をさせたりすることにとりくむほうがいいのではないか? 手術は、それらと比べて、特に複雑な技術を要するものではないのだから。
 ロボット手術は、むしろ、後進の教育を妨げ、不要な医療費を増大させる、不利益のほうが大きい。
 だが、これもなかったことにはできない?
 
 他に多くの人と関係する例をあげれば、スマホ、そしてそれを使ったキャシュレス決済というしくみ。
 実は、キャッシュレス決済で、便利になり利益を得て喜ぶのは、政府や企業、とくに大量に物を販売する商売をしている大企業の方だ。
 実際のところ、我々は、ほんの少しだけ便利になるだけではないだろうか?
 いや、もしかすると、キャッシュレス決済を使うための準備や手続きに費やされる面倒や時間、その都度チャージしなければいけない手間などを考えると、本当に我々は便利になったのか?と思ったりする。それどころか、本来、売り手側である大きな会社がやるべき仕事を、買い手側である小さな我々が無償で肩代わりしているだけではないか?
 我々は、目先にごまかされて、だまされていないか?
 そんな、へそまがりな講釈をたれなくても、どんなにわかりやすく説明しようがしまいが、多くの高齢者は、スマホもキャッシュレスも使えない、ということで、暗黙の答えを出しているのではないか?
「なくてもいいよ。生きていける。ちっとも不便でない。みんな、おどらされているだけさ」
 われわれはキャッシュレス決済がのない生活には、もうもどれないのだろうか?
 
 同様に、人類が一度手に入れた原子爆弾は、もうなくすことはできないのだろうか?
 
      *
 
 文章を書くということは、しばし、現実から離れることである。問診票で、名前はふせて、性別と年齢から病気を推量しはじめるように、何らかの情報を捨象して、抽象化をおこなうことである。
 なぜなら、間接性と同じくらい、直接性も疑わしいからだ。
 だが、結局、どこかの場所、タイミングで、おさえきれない「ドラマ」があらわれる。
 名前が、舞い戻ってくるのだ。
 これは不可避であり、自然なことだ。
 客観的であろうと心がけようとすればするほど、おさえきれない自分(アイ)が首をもたげてくる。
 アイ・ウィル・ビー・バック。
 とはいえ、何よりも、ぼくは、文章を書くという行為が好きだ。
「しばし現実から離れる」ということは、方法論として有用というだけではなく、ぼくの個人的な嗜好にあっている。
 文章を書いている、その時間が好きなのだ。

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