間違った聖者像を崇めてしまった男

これからする話は荒唐無稽で愚かで幼稚な話である。笑ってもらって構わない。

私は聖者になりたい。仙人になりたい。麒麟になりたい。神になりたい。誰も憎まず、誰にも憎まれず、ひっそりとして、それでいて光があって。

私が思い描く聖者の要素とは
①欲を持たない。金銭を要求しない、承認欲求を持たない。
②正しい事を成す。相手に必要な知識を提供する。
③人に好かれ、自ずと人が集まってくる。
だいたいこんな感じ。

でも人間でいる限りこれらを同時には達成できない。
まず、人間はお金がないと生きていけない。生存に必要な金銭をどのように調達するのか。③が満たせており、他者が献金してくれるなら成し得るかもしれない。だがそれで生活できるレベルに至るまではどうすれば?それまでに餓死するのがオチだろう。

次に、絶対的に正しい事というのがほぼ無い。
美しい物を黙々と生み出すことくらいしか思いつかない。
聖者と言って最初に出てくる人物は導きを求める者や間違いを犯した者に道徳を説いたりするものだが、現実でそれをしようとしても多くの人は肩書きの無い相手の言うことをまともに聞かない。これもまた肩書きを得るのに金銭が必要で、それを得るまでに餓死する。

そんな風に考えていると今日から聖者になると数日後に餓死して終わるだけだとわかる。
聖者になるには聖者でない期間を経なければいけない。聖者になるための条件を一つずつ揃えていかねばならない。聖者になるために聖者であることを捨てなければいけないのだ。
これを矛盾だと思ってしまったのが私の全ての誤り。
聖者になることも環境に許された人間の特権。
そんな簡単なことにも気付けないほど私は愚かだった。

私が一生のうちに至れそうな聖者像はどんなものだろうか。
望みがありそうなのは、寺に入って境内の掃除と法要を行い、悩める人の相談を聴き、空き時間で美しい絵を描く人生だろうか。なかなか悪くない。
それに近づくために今できるは今すぐ出家することか、まずは絵の技術を磨くこととなるか。

おそらく達成することはない。だってこの歳(31歳)まで努力らしい努力を積んだ経験など無いのだ。そんな人間が今から出来るとは思えない。
どこかで空腹に耐えかねて手早く金銭を受け取れる仕事に甘んじ、貧困の中に息絶えていくのが関の山だろう。
それでもこの夢は31歳まで生きた私が31歳になる時点まで手放せなかった夢だ。空腹に耐えかねるその日までは見上げて生きていくしかないのだろう。

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