見出し画像

本性はどこにあるのか

「追い詰められた時に出るのは追い詰められた姿だ」
「人を追い詰め弱さを引き出し、挙句それを本性と断ずるなんて何様のつもりだ」

■■■

『エクソシストを堕とせない』という漫画がある。強敵・ベルゼブルに追い詰められたレアは、ベルゼブルを倒すことよりも仲間を助けることを優先してしまう。レアの攻撃を免れたベルゼブルは、勝ち誇ったように笑う。「お前は大衆を守る『正しさ』より自分の欲を選んだ。だが恥じることはない。追い詰められた時にこそ人の本性は見られるというものだ」

この言葉に対し、遅れて到着した主人公が冒頭の発言をする。

■■■

「本性」という言葉を聞くと、同時に「本性でないもの」を無意識のうちに連想してしまう。「本音」と「建前」のように、常に「本性」は「本性でないもの」によって覆い隠され、そう簡単に外に出ることはない。けれと特別な事件が起きた時に“ついうっかり”外にこぼれてしまう。「本性」は常に守られるべき存在として認識されている。

■■■

架空の話をする。タカシは恋人であるリカと喧嘩をしていた。どちらか一方に非があったわけでもなく、些細なことがきっかけで口論になってしまった。正直タカシはこちらから謝る気にはなれなかったが、仲直りするきっかけを探していた。そこで翌日、タカシはリカが好きな花を買って帰ることにした。帰宅したタカシはリカに花を差し出す。

「これ、あげるよ」
「ありがとう。でも、花を渡せば仲直りできると思ってるんでしょ?」

■■■

リカの発言は、花を買ってきたタカシの「本性」を確かめようと放たれた言葉だ。ではこの時の「本性」とは何なのか。リカの視点で観れば「この喧嘩に関して自分が悪いとは思ってない」「でも仲直りするために打算的に花を買った」といったあたりだろうか。

「花を渡せば仲直りできると思ってるんでしょ?」という質問に対して、事実、タカシは仲直りしたくて花を買ってきている。これは「本性」に該当しないのだろうか?一方で、仮にタカシに「この喧嘩に関して自分が悪いとは思ってない」や「でも仲直りするために打算的に花を買った」という気持ちがあったとして、より正確に「本性」というものを言い当てるなら「この喧嘩を清算してリカといつも通り仲良くありたい」にはならないのだろうか?

■■■

「本性」と「本性でないもの」の境界は、かなり曖昧なものなんじゃないかと思う。タマネギのように、どこから実でどこまでが皮なのか正確に線引きできるものではない。

人は追い詰められれば、焦るし、怒るし、自己中心的になる。生き残るためにはそうするしかない。逆に人は余裕がある時は他者に寛容になれる。自分がさほど悪くない時でも「ごめん」と謝ることだってできるだろう。(それを打算と取るか優しさと取るかは人によって分かれそうだが)

■■■

ベルゼブルの言葉に対して主人公の反論がなければ、おそらくレアはこの先ずっと、「みんなを助けるべき時に自分の欲を優先してしまった」とタグ付けされた自身の「本性」を責めつづけるだろう。

誰かの本性を確かめようとする行為は、既に自分の中にある「誰かの本性」に当てはめようとしている暴力なのかもしれない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?