松原泰道師に学ぶ

禅の臨済宗の高僧、松原泰道師は「生涯現役、臨終定年」を座右の銘にしておりましが、その銘のとおり、亡くなられる3日前まで有志の集いで法話され、戻られると「のどが渇いた、ビールを飲みたい」と横になられた。その3日後に101才の天寿を全うされました。
 その泰道師は晩年よく、「空しく老いないためには自分自身への丹誠が欠かせません」といわれ「一生、自己丹誠」を目標として日々を過ごされました。自分自身への丹誠は死ぬまで続けなくてはならない、というのです。
 また泰道師が、法話でよく紹介されていた詩がありました。19世紀のアメリカの詩人ホイットマンの詩です。
「女あり 二人ゆく 若きはうるわし 老いたるはなおうるわし」
 若い女性は美しいが、老いたる女性はさらに美しい、というのです。
 若い女性の美しいのは天然自然の美。その「うるわし」を漢字に当てはめると眉目秀麗の麗という字がふさわしく。これに対して「老いたるはなおうるわし」の「うるわし」は、美人の「美」の漢字が当たると。麗は生まれついてのすっきりした美しさ。これに対して「美」は丹誠によって生まれる美しさだ、と泰道師は説明しています。
 また能楽の大成者観阿弥の子どもで、同じく大成者の世阿弥が残した21の伝書の最初の作品「風姿花伝」風の姿、花の伝えと書きますが、この中にも同じような言葉があります。
「時分の花をまことの花と知る心が、真実の花にはなお遠ざかる心なり」
時分の花とは若い時の花、まことの花とは修練、修養によって得られた花のことです。
若いときには若さならではの花がある。だが、それを自分の実力と思ってしまうと、永遠に真実の花はつかめない、と教えるのです。
また、世阿弥はこうも言っています。
「住するところなきをまず花と知るべし」
「住するところなき」は直訳では住むところがないことなりますが、意訳すると、現状に甘んじない、現状に止まらない、ということになります。  今の状態に安心してしわないで学び続けることは花だ、ということです。
 芸事に限らず、人生を生きていく上で大事な秘伝を世阿弥も私たちに教えていますし、これは泰道師の「一生、自己丹誠」にもつながります。
 さてこう話して、会場を見渡してみますと、真に麗しい花がたくさん咲いていることに感激です。
 長々と話しましたが、自己丹誠を倫理実践に置き換えればいいのではないでしょうか。日々の学びや倫理実践は、自己丹誠です。
 だから皆さんが麗しく美しいのだと思います。
 話を戻しますが、松原泰道師は日々の生活の中で自己丹誠すべく、3つのKを実践していたといいます。
 3Kとは、1は感動・感激。2は工夫、3は希望です。毎日を感動・感激を持って生きる。その為に工夫をする。すると希望が湧いてくる。この3kの実践こそが、まさに自己丹誠の要とも言います。
 皆さんは、今日、何回感動しましたか。と問えば起きたばかりでまだ何も感動していないと答えるでしょう。
 現代は、あまりに忙しくて感動する暇がないとも言います。言い換えれば、物事に感動できる感受性のある人が少なくなってきたとも言います。
 私が心がけていることが、この一日に何回の感動することです。
 いまは星や月が出ていれば見上げると美しいと感じますよね。また目の前にゴミがなくきれいにしている場所に入ればこれまた感激ですよね。例え仮にゴミが落ちていても、私がこのゴミを拾いキレイにすれば、自分自身が清々しくなれてこれまた感動です。
 そしてこの感動を、自分の中だけに留めておいてはもったいないと思います。共感は分かち合うべきです。ただ家族にあまりしつこく話すとウザがられますので程々がいいでしょうが、今日はその代わりにSNS、フェイスブックがあります。先日も庭に咲く山茶花を写真にとり、アップしたところ私のフェイスブックをみた多くのひとからイイねをいただき、また感激です。
 花を見て美しいと思った感激を、どうしたら伝えられるのか、フェイスブックで工夫をする。そうすると多くのイイねを貰い希望が湧くということだと思います。
 最後に、幕末の教育者、斎藤一斉の言葉を紹介します。「たとえ視力や聴力が落ちても、見える限り聞こえる限り、学びを廃すべからず」



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