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映画を見た

喫茶店を始めるということは、手っ取り早いアイデンティティの確立であったのだと思う。

喫茶店を始めてから、1ヶ月半になる。
まだ慣れない。リズムがまだ出来上がっていない。
日々なんとかやりがいを探し、店に向かう。
家賃の支払いとかそういうものの整備もできていない。しかし意外と楽しく、呑気にやっている。

店に立っていると「年齢の割に落ち着いているな」と感心されることがある。あまり意味がわかっていなかったが、考えるべきことを考えすぎる割に、どこか抜けているこのことを言われているのかもしれないと最近考えたりする。

「いつから珈琲屋さんをやろうと思ってたんですか」とか「どうして珈琲屋さんを始めたんですか」とか、そういう質問にいまだにうまく答えられない。ここしかなかったからという悲観的な理由もあれば、ここが良かったからという情熱的な理由もある。しかし、自分でも良くわかっていないのだと思う。

気づいたらここにいた。
一時期なにか猛烈な熱量に取り憑かれていて、今いる地点に行き着くことが人生の全てだと思っていた時があった。その頃の記憶は微かにあるのだけれど、今ここに立ってみるとその熱量を再現することができない。

窓から吹き込む風の強さだけを求めてアクセルを踏み、気づけば山奥でガソリンが切れた車のような話。何故ここにいるかも、ここでどうすればいいかもわからない。ただ、ここにいて、ここに向かうことが全てだと確信していた時があった。

そうか、これを書いていて思ったけれど、突き進むことが目的だったんだな。それをぶつけられる大きな的が喫茶店開業だったんだろう。腑に落ちた。ある種ここにいてどうするかなど考えていなかったのだ。若さだな。まだ若い。あまりにも。

昨日映画を見た。無性に映画館に行きたくなって、友達が見ていた気がするという理由だけで「悪は存在しない」という映画を見た。タイトルとポスターの絵ぐらいしか知らない状態で見た映画はこれまでなかったかもしれない。

広い映画館に3人だけだった。映画館に来たという確信が欲しかったからチュリトスを食べた。煩いから、上映前に食べ切ったけれど。

奇妙な映画だった。奇妙で美しかった。初めから終わりまで「人が死ぬな」という感覚が僕の中にずっとあった。何故かはわからない。わからないけれど怖かったのだと思う。

故郷の帯広を思い出していた。帯広の森という小さな森の中を少し奥に行くと、ぬめりけのある湿度の高い空気の先に、木々が生え重なって奥の光が見えない場所に辿り着く。ここから何が飛び出してくるのか、急に天気が変わるかもしれない。木が倒れる、虫が襲ってくる。恐怖の中に生を見いだしている自己の快感。その感覚に似ていたと思う。

田舎で育っていない人は、きっとこういう感覚がわからないかもしれない。大人になってもきっと怖いけれど、子供の時でしか感じられなかった森の美しさもあると思う。映画のチケットを貼りたくて、帰り際にある無印良品でメモ帳とマスキングテープを買った。ポケットに入っていたボールペンで、その下にいくつかの言葉を書いた。最後に書いた言葉は「一人で自然に入るのは今でも怖いだろうか」だった。

「カブトムシを取りに行きたい」とあの時言ったのは僕以外あり得ないのだけれど、真っ暗闇の田舎道を運転したのも、道を横断する小さなカブトムシを見つけたのも父親だった。僕はただ進む道があまりにも暗闇で、後ろから何かが追ってきたらどうしようとか、このまま帰りには道がなくなっていたらどうしようとか、そういうことを考えながら無言の車内で爆睡していた。「カブトムシを取りに行く」という湧き出したエネルギーで走り出すことが目的で、それをどうやって実現するかとか、それを捕まえてどうするかということはきっとあの時も考えていなかったのだろう。ゼリーを交換するのも、小蝿を対処するのも母親だった。

感情が途轍もなく吐き気がするほどに揺れ動いた昨年の夏。中旬だっただろうか。なんのために実家に帰ったか覚えていないし、なんの成り行きでそうなったかも覚えていないのだけれど。友達の女性が車で札幌に帰るというから、帯広で一緒に焼肉を食べて、そのまま富良野を経由して札幌まで同行したことがある。

その時に千年の森にも少し寄ったのだけれど、その奥に子山羊に餌をあげれるスペースがあった。そこで餌欲しさに柵に頭を突っ込む子山羊がいて、ツノのせいで後ろに下がれなくなっていた。どうにかこうにかして解放してあげようと試行錯誤したのだけれど、このままここで死んでいくことを覚悟したかのようなあの無気力な眼差しは今思い返しても面白い。

森にいる時の少しナイーブな彼女は綺麗だったな。
次に会う時、うちのロゴマークは彼女の努力なしでは出来上がらなかったことを打ち解けたい。彼女にとってはあまり重要なことではないかもしれないけれど、僕にとっては違うのだ。

映画の余白の中に、いろんな光景を思い出した。
一晩経っても感情が静かなのは、きっと映画を見ながら感情が揺れたから。同じ揺れ方をした時の景色を思い出していたのだと思う。

結局、冒頭の一文の伏線は回収できなかったけれど、昨日のことは残せた。充分である。

これはエッセイ。

帯広の森という名前、今聞くとすこし腑抜けているなと思う小樽の朝過ぎ。

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