右手で右手のリストカットはできない
2014-10-10
シャーペンよりも鉛筆派。
そのシンプルさや持ちやすい細さのようなデザイン性での好みの問題もあるけれど、その一番の魅力は文字を書けば書くほど芯が、鉛筆そのものの長さが短くなること。
文章書くっていう行為は、提供側と受容側でのリアクションの時差が生じる行為だと思う。
例えばスポーツや歌やお笑いなんかは、パフォーマンスをする側とそれを見に来た観客側が同じ空間でリアルタイムで互いのリアクションを交換することができる。
けれど、これを言ったらどう思うかなとか、この表現はわかりづらいかなとか、私が今こうして読む側のリアクションを考えながら書いている文章は、顔の見えない誰かに数時間後に読まれて、その人の感情や価値観にプラスにもマイナスにも触れることがあるかもしれない。
それは数日、数年後にそうさせるかもしれないし、もしくは読まれないこともある。
読者が感想を私に意図的に見せようとしない限りリアクションが見えづらい上に、リアルタイムでの双方のリアクションの共有というものはほぼ不可能。
そんな中、私が文字を書けば書くほど、鉛筆の芯は短くなってくれる。
それを削れば芯は鋭利になるものの、今度は鉛筆本体の長さが短くなる。
リアルタイムにリアクションを返してくれる存在は鉛筆、きみだけだ。
シャーペンやインクペンも、芯やインクがなくなるという意味では同じリアクションをくれるけれど、彼らのそれはいつも突然。
普段はポーカーフェイスなんだもん。
でも私ペンの持ち方がおかしいから、長時間アナログで文字を書くと手のひらに自分の爪がささって傷ができるんだよね。
手のひらのどこに傷ができるかは、持つ筆記具の種類によって変わるの。
今ある傷はシグノの0.38の黒。
これは数日前にゼミのエントリーシートを書いたときにできたもの。
傷の深度は筆記具の太さと持ち手の柔らかさによっても変わるけれど、それを持ってどんな文章を書いたか、どのくらいの精度の文字でそれを書いたかにも大きく影響を受ける。
これを読まれる前と読まれた後とでは、今後の自分を取り巻く環境が変化するであろう内容を、誤字の許されない外面のいい楷書で羅列する生産に長くお付き合いさせればさせるほど、手のひらはその大きな代償を支払うの。
そもそも爪を切ればいいのではないか、すると今度はミリ単位で筆記具の握りが変わって、爪を切る前には影響を受けていなかった場所に新たな傷ができるようになる。
でも、どんな筆記具を持っても常に小指の爪がささる場所があって、そこだけは小指の爪の攻撃からの防御に特化して皮膚が硬くなったんだ。
加害者と被害者の両方に一度になれる。
私にとって文字を書くって、自傷行為でもあるんだ。
そしてその自傷行為は鉛筆と同じく、
文章を書く自分へのリアクションなんだ。
ちなみに、三菱よりもトンボ派です。
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