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「退屈な日々にさようならを」

新宿のK’s cinemaで、今泉力哉監督の「退屈な日々にさようならを」を見た。彼の作品を「サッドティー」(2013年)、「こっぴどい猫」(2012年)、「知らない、ふたり」(2016年)と見てきて、登場人物たちが複雑に絡み合う群像劇の中で〈好きということ〉について考えさせられてきたが、今回は〈映画をつくること〉や〈誰かを想い続けること〉について、震災から5年が経過した監督の地元である福島と東京を舞台に描かれていた。

先日の11日で、震災から6年が経った。
わたしは今日という日までその6年もの間、震災について誰かの目に触れる場所で何かを書いたことがなかった。文章以外の別の手段で表現したこともなければ、自分の意見を口上で発表したこともなかった。震災について言葉を残すということを、なるべく避けて通ってきたように思う。
なぜだろう、震災というものを、自分の中で過剰にデリケートに扱い過ぎていたのかもしれない。いつか特別なときに、特別な来客用に、と普段は手の届かない食器棚の奥に眠らせるコーヒーカップのように、それに一度も何かを注ぐことはなかった。けれど、その6年もの間、コーヒーカップは食器棚を開くわたしを毎日、静かにじっと見つめ続けていた。

でも、今日をそのコーヒーカップを使う特別な日にしようと思っていたわけではない。特別なお客様が訪れたわけでもない。その時は、日々の延長線上にそっと現れた。



「死んでるってことを知らなければ、まだ生きてるってことでしょ?」


作中でこんなようなことを登場人物のひとりが言っていた。その人の現在を知らなければ、〈自分が知っているある過去の地点までのその人〉でその人は止まっているということだろう。その語り口の前には、〈現実はもうそうじゃないけれど〉という見えない括弧がつきまとう。

それに対して、

「死んだことすら受け入れてあげないなんて、そんなの残された人間のエゴだよ」

と責め立てられていた。上映中はその台詞に加担する立場で見ていたためか、先の台詞に非人道的な冷酷さを感じたが、上映後しばらくして、その台詞はわたしの中にじんわりと温度を感じさせた。


震災から6年、という言葉があちこちから聞こえるようになった頃ーー。
あの未曾有の大震災は、終戦の日や原爆投下の日、阪神淡路大震災や、地下鉄サリン事件などと同じように、日本人の根底に残り続ける共通の記憶なんだなとふと思った。今まで震災について言語化することから避けてきた自分が、なぜそのとき急にそう思ったのかは、自分でもわからない。
けれど、わたしたちの中にこの記憶は共通の歴史認識としてあり続け、そして語り継がれ、こういったものが積み重なって、そこに暮らす人々の価値観や思想に大きな影響を与え、それがその国や地域や時代の文化の統一感を生み出していくのだろうということを、そのときはっきりと確信したのだった。


その人の現在を知らなければ、〈自分が知っているある過去の地点までのその人〉でその人は止まっている、それは冷たく悲しいだけのことではないのではないだろうか。
人は、自分が忘れていた記憶を、他人の記憶によって掘り起こされることがある。自分の記憶と、他人の記憶の中にいた自分が異なることもある。これらの逆も当然起こり得るだろう。誰かの中にはない記憶が誰かの中にはあって、わたしが忘れてしまったわたしが誰かの記憶の中には存在して、そうして隣り合うひとりひとりの小さな記憶の円と円とが重なり合って、大きく複雑な集合体を形成している。
記憶とは、そこに存在した人々・する人々・するであろう人々とで共有している財産なのかもしれない。

人が死んだとき、残された者たちは悲しみに暮れる。人を亡くすということが意味する、その人にもう二度と会うことができないという事実は、〈自分が知っているある過去の地点までのその人〉と現在のその人の地点を照らし合わせることができなくなるという事実でもある。

しかし、〈自分が知っているある過去の地点までのその人〉でその人は止まっているという状態は、その人が生きていても日常的に起こっているのではないだろうか。そういう意味では、冷たい言い方だが、記憶の円が隣り合わない誰かの中では、たとえその人は生きていても、死んでいるのと同じでもあるのかもしれない。

けれどそれは同時に、記憶の円が隣り合うまた誰かの記憶の中では、その人は存在し続けているということの裏返しでもあるだろう。それは、きっと〈誰かを想い続けること〉に他ならない。



公式サイト
http://tai-sayo.com/
予告編
https://youtu.be/jGjIe2b4u04

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