「3S」ではなく「4S」
※サムネイル画像は以下のサイトから引用
【マッカーサーが厚木に降り立った日から71年。その登場シーンは日本人に鮮烈な印象を与えた(画像)】
https://www.huffingtonpost.jp/2016/08/29/douglas-macarthur-come-to-japan_n_11769044.html
1.第4の「S」
◆スポーツ
◆スクリーン(映画)
◆セックス
言わずと知れた「3S政策」
戦後GHQの実施した愚民化政策のひとつだが、実は「3S」ではなく「4S」であったと言われている。
では、4番目の「S」とは何だろう?
それは「Spiritual」
縄文
宇宙人
アセンション
レムリア
アトランティス
etc…
今ブームを巻き起こしている「スピリチュアル」こそ、GHQの仕掛けた「4番目のS」である。
これから時代が、どんどん良くなっていくのは間違いない。
しかし、
人間の可能性は無限大
楽しいことだけすればいい
ワクワクするだけで上手くいく
考えるより感じることが大切だ
脳は捨てハートで生きる
頑張るとどんどんダメになる
これらの「甘言」を(背景を考慮せず)字義通り解釈したなら、待っているのは「精神の荒廃」以外ないだろう。
スピリチュアルの世界で言及される「新しい生き方」を、都合よく解釈するのでは進歩はおろか、むしろダウングレードを引き起こす。
「見えない世界」に臨む上で最も大事なのは「肉体を持って生きることの限界を自覚する」こと。
肉体を持って生きる以上、私達は「時間・空間」に制約され、常に取捨選択を迫られる。
家でゴロゴロしようと思ったら、友達と飲みには行けない。
「バイロケーション」を極めた聖者でもない限り、同時に複数の場所に存在するのは不可能だ。
「時間・空間」という制約の中で、私達は最善を尽くすだけ。
人はこの広大な宇宙の中で、塵にも満たないチッポケな存在であるのは間違いない。
しかし、同時に人は宇宙の全情報を自身の内に含む「小宇宙」とも言える存在だ。
人は宇宙の一部であると同時に、部分であるはずの人の中に、宇宙の全情報が含まれる。
全体における部分と
部分に含まれる全体
このフラクタル構造(相似性)を理解する。
全体と部分における関係性。
これが頭に入っていないと、バランスを崩してしまうだろう。
思えば何でも叶う
思考は現実化する
今までたくさんの「願望実現メソッド」が生み出されたが、それを実行して本当に豊かになった人など数えるほどしかいないだろう。
もっと言えば、豊かになる人はそれ以前に十分な勉強を積んできている場合がほとんで、決して一朝一夕に成功したわけでないのは、その人をつぶさに見れば分かるはず。
願いを叶えるには
一日●●分△△するだけ
そんなキャッチフレーズで誰でも分かる明快さと、取り組む上でのハードルを徹底的に削ぎ落した「お手軽メソッド」が巷では多く見られるが、それによって栄えるのは受講者ではなく創始者だ。
講座の受講料やライセンス料、内容が更新される場合はサブスクリプション代の請求など「導線」を2重3重に引くことで、創始者の下には常に利益が流れ込む。
しかし、受講者の方はどうだろう?
願いが一向に叶わない
事態が全く良くならない
そうなると「待っていました」と言わんばかりに、新手の講座やサービスが次々と紹介され「セミナージプシー」へまっしぐら・・・
思えば何でも叶う
まずは、この誤った幻想を解くのが先決だ。
先にも書いた通り、私達はあくまでも宇宙を構成する「部分」としての存在だ。
「部分」とは言わば「パズルのピース」
ひとりひとり別々の「役目」を担っている。
だから、教師として人を導く役目の人が億万長者になろうとしても、おそらくそれは無理だろう。
自分の「領分」や「節度」を理解する。
しかし昨今のスピリチュアルは、そうした「良い意味での抑制」を取り払う。
「思えば何でも叶う」と豪語し、ラクにカンタンに金持ちになるのが「成功」だと主張する。
これまで培ってきた地道な努力を「不要」と切り捨て、「ワクワク」や「楽しさ」だけを取り上げる。
「金持ち」が悪いと言っているのでもなければ、「ワクワク」や「楽しさ」を否定しているわけでもない。
どこまでいっても「表面」しか見ていない。
ラクして儲ける
クサい物にはフタをして「楽しい」ことだけすればいい
そこに物事を洞察する「見識」や「知性」は見られない。
これでは「本末転倒」。
本来の「スピリチュアル」とは真逆の在り方と言わざるを得ない。
戦前の日本は教育勅語に基づく「修身」によって「目的意識」を養った。
何のために生まれ
何を成し
どこへ還るのか
そうした問いを内省することで、一人一人が自身の役目を全うした。
人の「偉さ」は、お金や社会的地位だけで計れるようなものではない。
それを誰もが深いところで分かっていた。
「スピリチュアル」を知らない昔の人の方が、スピリチュアルブームのただ中にいる現代人よりも、おそらく「霊性」は高かった。
「表面」を見るのに終始することで、深い洞察や感性が失われる。
物事の「背景」や「奥行き」を、捉えることが出来なくなる。
何度も言うが「楽しさ」や「ワクワク」を否定しているわけではない。
「楽しさ」や「ワクワク」の「奥」にあるもの。
その「背景」を感じ取る。
「楽しさ」や「ワクワク」といった「言葉」が大事なわけではない。
言葉の「真意」や「意図」がどこにあるのか。
次はそうした「背景の洞察」について、具体例を示しながら見ていこう。
2.背景の洞察
次の二つの言葉を、あなたはどう感じるか?
「バカだなお前、そんなことも分からないのか」
「バカだなお前、一人でそんなに抱え込まなくてもいいのに」
両者とも上司から部下への言葉がけだが、同じ「バカ」という言葉であっても、受ける印象は180度違うはず。
今度は「山」という言葉を見ていこう。
「山」という言葉を目にした時、「富士山」や「エベレスト」をイメージする人は多いはず。
では、次の場合はどうだろう?
「山を張る」
おそらく、全く違った情景をイメージするのではなかろうか。
多くの人は競馬やマージャンといったギャンブルをイメージするだろう。
さらに、これはどうだろう?
「山田」
おそらく、目に浮かぶのは「山田さん」という「人」のはず。
私だったら真っ先に、ヤクルトスワローズの山田哲人選手が目に浮かぶ。
このように言葉そのものは、「文脈」や「背景」によって意味が次々と入れ替わる。
言葉の意味が文脈によって規定されるこうした見方を、哲学の世界では「文脈主義」と言うらしい。
空気を読む
言わずもがな
阿吽の呼吸
以心伝心
etc…
言葉を介さず「背景」や「文脈=コンテクスト」から、言わんとする意図を感じ取る日本の習慣は「ハイコンテクスト文化」と呼ばれている。
反対に何でも言語化することで、白黒ハッキリさせたがる西洋的習慣は「ローコンテクスト文化」に該当する。
こうしてみると、本来日本人に「スピリチュアル」は必要ない。
欧米由来の「おままごとレベルの」スピリチュアルなど、本来相手にするようなものではない。
もともと日本人は「霊性の高い」民族だ。
欧米由来の「スピリチュアル」など、本来の日本人から見れば「子どものおままごと」にしか映らない。
逆に言うと、
そうした日本人の高い霊性を恐れた(畏れた)からこそ、それを封じ込めに掛かろうと画策したのが「4S政策」の意図だろう。
ディープステート(DS)のパターンは決まっている。
99%真実を語り、最後の1%で突き落とす。
DSは「謀略」の天才だ。
謀略の要諦は「真実を適度に織り交ぜる」こと。
全部が全部ウソであれば分かりやすいが、実際は「虚」と「実」がモザイク状に混ざっている。
善人の顔をして真実を語りながら、時おりウソを混ぜ込むことで、世論を意図する方へと誘導する。
だからこそ「見えない世界」へ足を突っ込むなら、「背景」の洞察が不可欠だ。
言葉の裏に隠れた「意図」や「背景」を、自身の知恵や経験を総動員して洞察する。
「ワクワク」や「楽しさ」などの甘言とは別に、ある種の「冷厳な眼」によって物事の「裏」を見極める。
虚と実の入り混じった「おままごとスピリチュアル」を、さらに高いところから俯瞰する。
それが日本人の役目だろう。
「4S政策」の一環として商業利用されたスピリチュアルなど、本来相手にするようなものではない。
3.真偽を分けるもの
「スピリチュアル」とは本来、「道具」ではなく「在り方」だ。
お金儲けの「手段」や「道具」として利用されるスピリチュアルは、本来のスピリチュアルとは似ても似つかぬものとなる。
「Do」と「Be」の違いを見極める。
「手段」として利用される「Doのスピリチュアル」と、
「在り方」を追求する「Beのスピリチュアル」。
両者の違いは「紙一重」。
それを見極めるには「畏れの意識」が不可欠だ。
「見えない世界」への「畏敬の念」。
「スピリチュアルは何でもアリ」という見方も散見されるが、実際は逆だろう。
スピリチュアルとは「法則」で、それは緻密な計算に基づいて運用される「宇宙の真理」と呼べるもの。
「神とは何か?」と問われたら、私は次のように答えたい。
最高のスピリチュアリストにして且つ、最高の科学者
そうした「神」に対する「畏れの意識」を忘れない。
良い意味での「遠慮」や「抑制」を効かせること。
「何でもアリ」とエゴにむき出しにするのではなく、「本当に自分が求めるもの」と真正面から対峙する。
そうした姿勢を維持していれば、「ウソ」や「罠」にはまることはないはずだ。
安易に「正解」や「答え」を求めない。
これもまた重要だ。
私は何をすればいいんですか?
将来どうなるんですか?
あの人の言っていることは本当ですか?
手っ取り早く「答え」を求めようと「クレクレ星人」になってしまうと、十中八九「4S政策」にカモられる。
「クレクレ星人」ほど騙しやすい「カモ」は他にいない。
彼らは安心を得ようといつも「答え」を求めているから、そうした人間を騙したり洗脳するのは、赤子の手をひねるより簡単だ。
分からないものは「保留」にする。
分からないものを分からないままに出来る「強さ」を持つ。
その「強さ」が持てないのであれば、「見えない世界」に足を突っ込むのは、控えた方が身のためだ。
「意識を高めましょう」
「受け入れましょう」
「軽くなりましょう」
よく見られる「スピ系」のスローガン。
だから
「調和」だとか
「楽しさ」だとか
「ワクワク」だとか
「許し」だとか
(中身のない)耳当たりの良い言葉が飛び交うものの、そこに現実を動かす力は全くと言っていいほど見られない。
「意識の高さ」が大事なのはもちろんだが、それと同等かそれ以上に大切なのは「現実を動かす強さ」だろう。
安易に「答え」を求めるのではなく、自分の頭で考える。
「意識」と「現実」の関係性
それを踏まえた上で、この現実をどう観るか。
自分軸に沿って、この現実を解釈すること。
そうした「強さ」がなければ、求める現実を自身の手で創造するのは不可能だ。
「答え」をくれる「おせっかいな人」はごまんといる。
けれども、そうした人は「スピリチュアリスト」ではなく「道化=ピエロ」だろう。
誰の言うことに耳を傾けるか。
あらゆる情報の取捨選択が迫られる。
「本物」と「偽物」を分けるもの。
それは、ごくわずかの差でしかない。
これまでの学びと経験をフルに活かして「スピリチュアル」と対峙する。
これからは誰もが多かれ少なかれ、大いなる宇宙のふるいにかけられ、各々の「真価」を試されるようになるだろう。
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