#7 「先生は、学校が無ければ、ただの人だ。」
これは、プレゼンの中で、とある高校教師が言った言葉。でもそれは、みんなが当てはまるのではないだろうのかと思った。
あなたにとって、それは学校かもしれない。会社かもしれない。もしかしたら、組織ではなくて誰かに依存してるかもしれない。自身が軸でない組織(人)の場合、それが無くなるとどうなるのだろうか。
それは、こわいよね。不安に思うのは分かる。
習慣のバランスを崩すのに、勇気が必要になってくる。
当然だけど、自身が軸でない人もいて良いと考えてる。でも、それが自覚的かどうかだけが、ぼくは心配です。「みんながこうしてるから」「言われたから」が理由になってるんじゃなくて、例えば「ぼくは、自分が得意な料理をやっていますが、どちらかというと、誰かの夢を応援して支えることの方が力を発揮します。」とみんなと対話して自分を分かった上で、試した上で、「他者が軸である」という自身の軸がある。
その場合、もし他者が変わっても狼狽することは少ないだろう。そして、例え話として出したのは実話で、そう教えてくれたのは、高校一年生の男の子だった。
▶︎「じぶんのことは、じぶんがよく知ってる。」
実は、経験則や認識が邪魔をして、正しいモノの見え方、意図の汲み取り方ができない場合がある。じぶんも気を付けてたいことなんだけれど、考え方に偏ってる場合があるからこそ、誰かと対話をして、その感触をなるべく多くの人に確かめて精度をあげて、専門書などでより見識を深めながら、自分の答えを磨いていくのが、健康的だと考えています。
これは、有名な「ジョハリの窓」
説明するまでもないけれど、この目的は、自分と他者との認識のズレをあぶり出したり、他者の認識を受け入れたり、自己の盲点に気づいていくことにある。
それを考えると、本当の自分はなんだろうと思ってくる。
家族との自分、友達との自分、パートナーとの自分、会社との自分、学校との自分、少なからず相手からの影響を多く受けながら自己形成するし、相手も同様に別のところではちがう顔をしていて、当然。
(この本には、その詳細が書かれてありますから、是非参考にして欲しい)
では、既にある関係性(家族や友達、会社)で「新しい自分」を表現しようと思ってもなかなか難しい。冒頭で言った「習慣を変える」勇気とは、「関係性」や「環境」を変えてみる行動を指します。
自分のことを分析しながら、周りに受け取ってもらいながら、自分の持つ「答え」のような種を磨いていく。その空間では、アドバイスは禁止されている。あるのは「問い」のみ。
挑戦が気軽にできる場、対話が心地よくできる場、肩書きが不必要な場があったら良いなと思いませんか。
それが四人で運営をやっている「未来クルーズ」という場です。
▶︎じぶんらしく在るための「余白」をどうつくる?
ー 小学校の絵画の時間
正確に模写ができることが「美しい」とされる世界観では「自分らしい」は、発見できないと僕は思う。
教育の場には、社会には「自分」と向き合う機関はない。
トイレだって最初は親が付いててくれたのに「自分と向き合え」って進路で言われるけど、自己探求の方法なんてなかなか自分で見つけることはできなかったし、そもそも未来クルーズに来たって、何かが見つかるとは限らない。
何度だっていうが未来クルーズには「問い」しかない。それを自分で解いて、答えを投げて、感想をもらって、またひとりの時間で、朧げに考えて、また聞いてもらう為の一面が在る。
正直、好奇心/探究心/勇気があれば、安心安全であれば、どんな場所だっていい。
そのひとつの開かれた場所が「未来クルーズ」で、近所の人との立ち話だったり、専門家のセミナーだったり、人によって様々な場所が在るからその場を借りて、存分に自己探求を進めてほしい。
そうすれば、ほんの少し生きやすくなるから。
ぼくは、指宿出身のれいなと枕崎市に来てくれた立夏と南さつま市出身なのに外来種だと弄られるだいちゃんと四人で、場を運営できてることが純粋に楽しくて、二人の高校生が積極的に訪れてくれてて、誰もが誰かの未来に携っている関係性が本当の意義あると感じています。
今後は、教師と卒業後の生徒との関係ってタブー視が在るけれど、人と人として対峙できるコミュニティーの可能性を感じているので、その先をいってる群馬の「ODD SCHOOL」と情報交換しながらやっていきたい未来をみています。
みなさんには、好きなものを「好き」と言える場所がありますか?
なりたいものに「なりたい」と言える場所がありますか?
ぼくは、それが表現できる場所と挑戦できる場所をつくりたい。
▶︎サトーコーヨー
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