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#51 エントロピーする速度

ずっと言葉に置き換えれないまま、
なんか書けないままいたのだけれど、ちょっと書けそうだから書いてみる。

基本的に最中(sanaka)という名称は、ブランド名や活動名と云うより自分にとっては生き方のようなもの。だから、心の中心にいつも在る。ご飯を食べても、景色を眺めても、本を読んでも、全部がそこに向かってしゅるしゅるしゅると入っていく。見たことのない巨大な壺のようなものが心の中心にいつも在る。

壺だから、入り口は小さくて、奥は闇。何が入ってるかは分からない。
ただし、掴んだときにとんでもないものが言葉になって出てくることがある。

ぼくは、それがたのしみでしかたがない。
発信者であるのにもかかわらず、自分から出たものではないような感覚の言葉。だけど、過去のぼくが経験した事柄を断片的に感じる言葉。

この場所だって、ぼくは書いた文章であることは間違いないが、しばらく経ったらぼくのじゃない人の文章のように感じている、不思議。

困惑

最中としては、1年4ヶ月が経ち、歩くとすぐこけちゃう頃合い。

「何処に行けば、手に入りますか?」「お店をやっていますか?」と声をかけて頂く機会はあるが、最中は展示会を軸に服を渡している。

ぼくの中で「店」と「展」は大きくちがうのけれど、その違いをみんなはどう認識しているのだろう。そこのところは皆目見当がつかない。

こちらの心持ちとしては、複雑に入り組んだ思考や心の感触があるから、これまでの活動に至っているというのに、どう社会と接続すればいいのか、いつも困惑するのである。

もの/ば/ひと

ぼくはたべものを渡している人、いいなって思うときがある。
たった今この瞬間の幸福が渡すことができて、すぐなくなっちゃって、またやってくるかもの期待があるからね。みんなが口に運びやすいおねだんなのもいい。

きるものはすぐなくなったりしないかわりに、身体に合うたびに何度だって幸福感がやってくるし、遠くに住んでいる人にも渡せちゃうのがいいね。ただみんなに渡りやすいおねだんか?と云うと、むずかしいところ。そこがたべものを渡している人をほんの少しうらやむところ。

本当はもっと渡しやすくしたいけど、簡単に消化されないものだからこそ、慎重に渡したい。価値の数値化(おねだん)にいつも迷っている。

「店」と「展」は、人がやってくる心構えが大きくちがっている。

「店」は、オープンしてたらいつでも出入りできるやさしい空間。
「展」は、本を読む前のようなどんな話なんだろうって、ちょっぴりどきどきする空間。

「店」は、あの商品や店の人に会いたいから気軽に行ける空間。
「展」は、あの作品や人に会いたいから気軽に行ける空間。

「店」は、芸人さんたちのそれぞれのネタが見れるテレビのような空間。
「展」は、芸人さんのこのネタを見て欲しいって劇場のような空間。

最中を”お笑い芸人さん”で例えると、基本的には劇場でしか会えないんだけど、たまにテレビに出てくるような芸人さんです。

例えば

ぼくらは、どんな芸人さんになりたいんだろうって考えた。

霜降り明星のような漫画の主人公のみたいな二人なのか、ハライチのような片方はテレビで活躍し片方はネタを仕込むのか、東京03のように劇場でやり続けて花を咲かせるのか、、なんて考え方をしてみた。

あたまにすぐ浮かんだのは、劇場チケット1万でも完売しちゃうようなシソンヌのようになりたいなあ、、、っと。又吉さんのような芸人として立ち振る舞いができて、本もかけて、YouTubeの入り口もやってて、、あれが今一番かっこいい形だなと個人的に感じている。(できるかは別として、かっこいい。できないからかもしれないが、かっこいい)

という思考の先にあったのは、劇場(展示)で人がみたいって思う人が少しづつ広がっていくように丁寧に開催して、繰り返していくこと。テレビ(お店)には、本当に活躍できるか見定めて、参加させてもらうこと。

心地良い速度で、交わるように
心地良い速度で、渡していく
心地良い速度で、進めていく

そのタイミングでお会いできたら、お話ししましょう。

最中/コーヨー


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