僕が見たいもの。

こんばんは。こーたんです。さっき、僕のイチオシの絵師がわざわざ見せる予定のなかった絵をDMで送ってきてくれた事に感動していた所です。僕には見られないものだと思っていたので。

僕がSNSをやる最大の理由は「貴殿の美とするもの。快楽とするもの。貴殿が貴殿であることの証明」を見ることです。

と書けばかっこよく聞こえるでしょうか。簡単に言えば「あなたがあなたの五感で見て聞いて感じたものをあなたの手や文字や筆、音で表現したものを見たい」と言う欲求からです。なにせ、体はひとつ。そして経験できる人生もひとつ。であるならば、母数を増やして経験を得てしかるべきだと考えているからです。

その中でも僕が美とするものから遠く離れたものには興味を惹かれます。僕が今まで美としてきたものは自然の風景だったり、人間としての言葉だったりしたわけですが、絵や音楽、つまり僕の手では作り得ないものは非常に興味深い。そこに多少の「作品を作り出した人そのものへの興味」が無いわけではありませんが。

作品を美とするか。はたまた作者を美とするか。

小説には書かれた言葉より、あえて表現せず書かれなかった言葉が多いように、絵画にも表現しなかったものがあり、音楽にも弾かれなかった音がある。会話には伝えなかった言葉があり、大抵、人間性には表現されたものより表現されなかったものに味が出る。と、認識しています。

私は作者を美とする。それは、僕が触れることになった人達全てにおいて「その方々全てが作者であり、表現者であり、美である事」に繋がるから。いくら作品が社会的に醜かろうと、表現者に美がないとは言いきれません。そこに作者が感じてたであろう美学がある。それを言語化できるかできないかは置いておいて。

私は雑食。なんでも理解しようとする。それが私と誰かの違いを理解するのに最短ルート。そして、私と誰かを繋ぐルートである事を僕は知っている。であるからして、私は全てを見たいし、全てを感じたい。たかが60年生きて往生、そこから先はボーナスタイム。その程度の期間で私が何を得られるかなど誰かから見たら下らないかもしれないがそれが私の唯一美とするもの。

「誰かが美しいとしたもの」を知らないで死ぬなんてあまりにも勿体ない。

僕のイチオシの絵師様へ

わざわざ絵画を送ってくれてありがとう。すごく綺麗だった。「これが何を表現したものか、作者の感情を答えよ」という現文に出てくるような問題には答えられないけど、哀愁と恵まれた容姿と少しの絶望を感じました。顔が物凄く良い。良いのにこのような表情をする背景が気になりました。僕個人の解釈ですが。

またあなたが美とするもの。これからも見せて頂きたく。そして、もうすぐ僕が美とするものを少しずつ見せていければと思っています。

僕はあなたを敬愛します。本当に有難う御座います。

はしこー

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