小日向由衣物語②

ここまで読んでくれた人はおわかりになったと思いますが、私は確実に頑張り方を間違えていました。やりたい事で頑張らず、おいしい話を信じてしまいました。

ライブを再開した私は、求められてもカバー重視にするのを辞めました。持ち時間の都合によりカバーを歌う事はあったけど、気持ちの部分でカバーに逃げるのを辞めました。対バンイベントで知り合った人に、オリジナル曲を作りたいので紹介してください。と声をかけるようになりました。私はアレンジ部分もこうしたいっていうのが明確にあるので、送られてきた物をそのまま歌うのは嫌で、制作に立ち会ってやりたい事も伝えました。対バンイベントで業者1に出会い、立ち合いで新曲を作る事が出来るようになりました。

カバー曲を歌うアイドルのイメージをとるのも大変でした。オリジナル曲を歌っていると、誰の曲?って聞かれる場所で歌っていたので、オリジナルを歌う人と対バンしていくにはどうしたら良いのかを考えました。楽器を持たないので、シンガーソングライターである事をわかってもらいずらかったのもあります。カバーの人じゃないって浸透させるのに時間がかかりました。悔しいと感じるたびに、出来るだけ本気にならないように、楽しく趣味としてやろうと思いました。音楽や歌う事を嫌いになりたくなかったからです。好きな事を好きなままで居たいと思いました。

この頃、眉村と出会いました。夢と希望に溢れ、やりたい事に突き進んでいく姿がとても眩しかったです。同じ所によく出ていて知り合ったけど、弾き語り女子界隈など幅広く出演する様になっていきました。自分を信じて前に進んで叶えていく姿が嬉しかったです。素晴らしい声と発想と努力が出来る人なので、自分の分まで絶対売れて欲しいと思いました。最初はそう思わないと自分が惨めに感じてしまう。と言う部分もあったのかも知れません。でも、眉村は私が自信がなくて、オリジナル曲をやっても聞いてもらえない。カバーを歌っている人の方がオリジナルより聞いてもらえてる。と悩んだり、楽器を弾けないのにシンガーソングライターです!って言って良いのか。と自信をなくしたりしていると、え?そんなのシンガーソングライターに決まってるじゃん!って即答してくれました。私の曲は私にしか歌えないんだから自信を持って!と励ましてくれました。持ち時間が少ないのに、カバー曲で時間使うの勿体ない!って言ってくれた眉村のお陰で、前を向く事が出来ました。三十六房やフェスボルタを紹介してくれたのも眉村でした。眉村の曲の良さや魅力について、私が語り出すのも野暮だと思うので辞めておきます。私は眉村の成功を心から望み、喜びました。

三十六房への出演から、一気にシンガーソングライターとして認知されるようになりました。CD-Rで新曲を売り、誕生日に生誕ワンマンライブをする流れが出来てくると、少しずつお客さんが来てくれるようになりました。自分のCDを買ってくれる事に感激しました。音源ある?って聞いてもらえた事が嬉しかったです。新曲を作っていると、楽しみです。って言ってくれる人が出来たのが初めてで、本当に嬉しかったです。それでもまだ、人数は全然少なかったけど、数じゃなかったです。やっとスタートラインに立った気がしました。

小さな世界で回せるようになって来た頃、現状に満足しようとしていました。やっと出来た小さな世界を大きくするより、私が作った曲を喜んで聞いてくれる人がいる。それを守ろうとしていました。音源を求められる事が初めてで、1人でも欲しいって思ってくれるだけで嬉しかったです。勿論沢山の人に買ってもらいたいって気持ちはあるけど、マイペースに楽しくやるのが1番だと思いました。私には今のままで十分幸せって思ったし、歌えない辛さを知っているから、歌えるだけでそこがどこだろうと幸せっていうのが根本にあって、それは今も変わっていないのだけど、当時は何かを望んで叶わない事に傷つきたくなかったんだと思います。何処かで、自分に自信を持てきれずにいました。

ワンマンライブも終わり、私も私を応援してくれるみんなも、一息ついた感じになりました。対バンライブには呼ばれて出ていたけど、ワンマン前より活気がなくなってしまいました。落ち着いてくると、ワンマンに来てくれた人達に伝えたい事も、話したい事も感謝の気持ちも沢山あるのに、ライブに来てくれないと伝えられない!ってもどかしく感じました。現場に来れない人達にも提供できるコンテンツが欲しい!と思った時、はじめたのがサポート機能が話題になっていたnoteでした。

noteは小説などに向いていると聞き、現場に来ない人にも楽しめる物を届けたい。って、なんとなく書き始めた物語が思った以上の反響がありびっくりしました。noteを読んで興味を持ってくれたり、noteから私を知った。と言う、note新規も現れました。なーんだ!だったら、もっと早く始めれば良かった!と思いました。自分を表現する場所を増やせた事により、文章で気持ちを表せるようになりました。

それから、次のアレンジャー業者2と出会い、ドラムのリズムや音色を選び、こういう音の並びにして欲しい。とか、この音をもっと前に出してなど、編曲の細部まで一緒に作っていけるようになりました。業者2の繋がりでバンドをやれるようになり小日向由衣with組織としてライブが出来る事が決まりました。バンド詐欺みたいなのにお金を払ってまでやりたかったバンドです。私にとっては夢みたいな話でした。次のワンマンライブは憧れの鹿鳴館でバンドでライブをする事という、目標も出来ました。と、同時に以前は本当にやりたい事が出来ていないから評価されなかったんだ。と、自分に言い訳出来ていた部分も、自分のやりたい事で自信を持って作った曲で駄目だったら、どう気持ちを持っていけばいいのか。と、葛藤するようになりました。

鹿鳴館の宣伝の為に、ライブをやりフライヤーを配り作戦を考えました。1人でも多くの人に来てもらいたい。動員を増やしたいと、ライブやCDを売っていく中で私は、Twitterで宣伝してもらえている事が嬉しくて、ライブが良かったって言ってもらえた事に満足してしまっていたんじゃないかって思いました。叶いっこないって、諦めているのは誰よりも自分なんじゃないかって。私の曲を好きだって言ってくれた人達に失礼な事をしていたんじゃないか?って思いました。誰も望んでない、独りよがりで作ってやりたくて歌ってきた曲を、私の音楽を好きな人が居るって信じられた時、その曲は私だけの物ではなくなっていく感覚になりました。本気だったり本音の部分を否定されたら、本当の自分が嫌われたら傷ついてしまうからって取り繕っていた部分を、少しずつだけどライブで出せるようになりました。社会に受け入れてもらえないって卑屈になっていた私を、れじぇらー(ゆいちゃんこ)が私に、存在してていいんだよ。って教えてくれました。

本気で頑張っても叶わなかったら傷ついちゃうから逃げてました。本当はいつだって真剣だし本気でやりたくてやりたくて、私にとって音楽は苦しいくらいなのに、上手く歌えなくて向き合えなかった。小さな世界で満足しようと言い聞かせていました。バンドという夢を一つ叶えられた事で、私が鹿鳴館を目指す事で誰かの希望になる。と信じよう。と思うようになり、私を私の作る物を好きだと言ってくれる人を肯定しようと思いました。だから自分を好きになろう。と思いました。

鹿鳴館ワンマン前にインフルエンザになり、夏なのにインフルエンザになるんだ!って気持ちとインフルエンザは治ったものの、喉が完全じゃない状態で鹿鳴館ワンマンを迎える事になりました。お客さんも沢山来てくれました。感情のまま全部ぶつけたので、音程外れてたり荒いところもあったけど、バンドでワンマンが出来た事が幸せ過ぎて、あっという間に終わってしまいました。こんなに幸せな瞬間の為なら、悩んだり迷ったりの苦しい時間を引き換えに出来ると思いました。あんまりにも楽しすぎて燃え尽き症候群になりました。

なりすレコードの平澤さんと出会いも、大きなものになりました。ドッペルゲンガーが好きだと言ってくれて、レコードを全国流通させる事が出来ました。まさかのレコードに現実ではないのでは?と思いました。私は子供の頃からの環境や、出来なかった経験から、私に幸運が訪れるはずない。だから嫌なことがあっても仕方ないんだ。って思ってしまいます。だから次の目標にした、初の全国流通のベストアルバムのタイトルは、『夢じゃないよ』にしました。と同時に、CD発売の記念ワンマンライブがしたい。と思った時、真っ先に頭に浮かんだのが、ライブハウス月見ル君思フさんの大きな月でした。あの大きな月の下でアコースティックライブをやりたい!と、衝動が抑えきれず会場を借りました。

CDショップでのリリイベの初日、みんなの顔を見たとき、3人くらいしかいないお客さんの前で歌っていた私が報われたような気がしました。私にもリリイベが出来た。それだけで感激して泣いてしまいました。あの日の私が未来の私を知ったら、どれだけ喜ぶだろうか。続けてきて良かった。と心の底から思えました。

無事全国流通出来て嬉しい!までは良かったのだけど、CDは流通させれば全国って事ではなく、店頭に並べてもらう事の難しさを知りました。渋谷と新宿のお店に自ら出向き、並んでいないCDのポップを書かせて下さい。とお願いしました。店員さんにはご迷惑をかけてしまったと思いますが、お店に置いてもらう事が出来ました。とは言っても、新宿と渋谷だけです。もっと沢山の店舗で展開してもらうには売り上げが必要になります。当たり前だけど、動員とか売り上げとか、そういうのをあげていかないといけません。

リリイベやライブハウスでライブをしながら、CD夢じゃないよと月ミルワンマンの宣伝をしました。地道に少しずつでも知ってもらう為に頑張ろうと思いました。3月1日の月見ルワンマンに向けて動きだす中で、コロナウィルスが徐々に拡大していき、私の世界も変わっていくのでした。

続く

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