生命を生き切るということ

「生命を生き切る」

いつからか,僕の人生のテーマになっていた。
「あなたは,自分の生命を生き切っていますか?」
あなたはこの問いに答えられるか。

生命を生き切るというのはどういうことなのだろうか。
人間もものも,それぞれが持つ使命を果たしているのか,という表現が一番近いように思う。
ものも,それが使える寿命があり,使える期間がある。
もちろんそれだけではなく,こう,うまく言葉では表現できないエネルギーや生命のようなものを感じるのだが,そういったものを全うしているのかということである。

自然や地球は人間や動物,植物など,様々な生命を育む「大いなる母」のような存在である。
それが17世紀後半の科学革命によって,いつしか人間は自然を収奪できる,母から搾取をする存在と勘違いするようになった。
私たちは確実にその存在から恩恵を受けているにも関わらず,資源の枯渇や地球温暖化,地球環境問題という母の問題に対しては目を向けない,或いは向けたとしても依然として解決に向かっていないというのが現状である。
これでは,我らが母の生命が全うされているとは思えない。

翻って人間はその生命を全うできているのだろうか。
と考えた時に,「私たち人間の根源とは何なのだろうか」という問いについて考えてみたい。
私たちは,自らが持っている感情や感覚からは切っても切り離すことができず,そうしたものと一生付き合って生きるしかないのである。
人生を生きる中で,様々な好きや嫌い,楽しいや悲しいにぶつかることになる。
こうした「こころ」こそが人間の根源ではないだろうか。

少なくとも現代社会における教育は,こうした人としての独自性を覆い隠し,資本主義の論理に基づいて画一化された大量のロボットのような人間を創出することに成功した。
高度経済成長期はよかったのかもしれない。
戦後の貧困期から抜け出すためには,経済を確実に成長させることが必要であり,また物質的にも豊かになりたかった。
生存に関わる不足があれば,それを補おうとするのは生命を持っている者の宿命であると考える。
しかし,物質的にも豊かになり,経済成長は鈍化し,一人当たりGDPと幸福度が乖離している今日,もはやこれ以上の物質的豊かさが必要かと問われればそこには疑問が生じる。
私たちはこんな現代社会に対して何を感じるだろう。
「若者の〇〇離れ」という言葉をよく耳にするが,前の時代と今の時代を比較した時に,物質を求める時代に生きているようには思えない。
むしろ個々人の体験が重視されているということは,その内面における心の動きこそが今の時代に生きる上での一つ共有されうる感性なのではないか。

先に述べたように,私は「人間の根源はこころである」と思っている。
私たちの感情や感覚は,私たちの「生」から切り離すことはできず,むしろそれと共に人生を歩んでいくしかないのである。
この世界で起きている全ての体験は,私たちの「こころ」まで到達し,そこから世界に対して何かしらを表現しているのだ。
こうした根源たる「こころ」に蓋をして,思考だけを発達させて,さて私たちは生命を全うできるのだろうか。
それをしてきた結果が,現代の鬱病や自殺者という形で表れているのではないかと思う。

普段の人との関わりの中での感情,感覚。
悲しさや寂しさ,嬉しさなど,心で感じる様々な感情や感覚を逃さずに生きること。
それが生命を生き切るために,必要なことなのではないかと思う。

サポートしていただいたお金は、加賀、石川、日本海側を活性化させる事業に使わせていただきます!