勇気とは何か
昨日風呂あがりの息子が突然
「パパー勇気ってどうやって出すの」
と聞いてきた。
「なんでそんなこと聞きたくなったの?」
「だってーチカラが強くてもココロが弱ければ負けるんでしょー」
息子は確かに標準よりやや、いや大分気が小さい。残念ながらそこは嫌になるくらい父親に似てしまった。
僕も小さいころはテレビでアニメを見てたりして、これから何か怖そうなことがはじまるような音楽が流れると一旦テレビを消して、怖そうなことが終わった頃合いにもう一度つけて、みたいな事をよくしていたものだ。
息子もスリルを感じるようなシーンになると、テレビを消してくれとせがむ。遺伝子の力はスゴイ。
「まぁそうだな。心が弱いと戦う前に逃げちゃうから、そもそも力が強くてもそれを発揮できないから、負けちゃうのかもな」
「だーかーら、勇気ってどうやって出すの?ねーねーどう出すの??」
難しい質問だ。まじめに答えようと思えば思うほど。よりによって食後の風呂あがり、完全に脱力してあとはテレビ見て寝るだけというような時間帯に似つかわしくない哲学的な問いかけだ。
「うーん。難しいなぁ。でもな、大人になってもどうなってもさ怖いものはずっとコワイんだぜ」
「え?そうなの??パパも?」
「そりゃそうだよ。オレは自慢じゃないけど気が小さいからな。ほら、パパ鳥怖がるだろ。どんな小さな可愛い鳥でも死ぬほどコワイんだよ。」
「ギャハハハハハハ」
「笑うけどな、みんなそうやってコワイものがあるし、コワイと感じること自体は悪いことでも恥ずかしいことでもないと思うよ」
「じゃあ勇気なくていいの?」
「なくていいってわけじゃないわな。やっぱり勇気出さなきゃいけない時があるよ」
「どんな時?」
「例えばさ、オマエとオレで森に行ったとするだろ。そしたら向こうから怖いライオンがガオーッとやってくるとする」
「ライオンは森にはいないよ~サバンナだよ~」
「うるさいっ。森にいたんだよその日は。で、怖いライオンがガオーッと吠えて近づいてくるわけだから、当然オマエも怖いが、オレも怖い。おしっこちびるくらい怖い。」
「どうするの逃げるの?」
「そうだな。たぶんパパは逃げられるならオマエを抱っこしてダッシュで逃げる。だけどもし二人で逃げられそうになかったら、パパがライオンに向かっていって、オマエを逃がすぞ。怖いけど、勇気を出してそうすると思う。勇気出すってそういうことだ。」
「なんで勇気が出せるの?」
「確かにパパにとってはライオンに食べられることは怖い。すごく怖い。。だけどな、よく考えたらパパの代わりにオマエが食べられてしまうことのほうがもっと怖い。その”よく考えたらもっと怖い”ことになってほしくないから勇気が出るんだよ。パパの言ってることわかるか?」
「うーん。わかる~。。。かな。。」
「あんましわかってないだろ、、5才児には難しいか。とにかくな”コワイ!”って感じた時によくよく考えたら、目の前のコワイことから逃げたら、もっとコワイことになることがあって、それがわかれば自然と勇気出るよってことだよ。これわかる?」
「うん。わかった~パパーいいはなししてくれてありがとー」
たぶんあまり意味が伝わった気がしないのだが、こういうのは意味が理解できる以上に大人が本気で答えることのほうが大事かなと思って、頑張って答えてみた。
で、一旦脱力した脳をフル回転させて「勇気」について考えたものだから、その後もひとしきり「勇気」ってものの定義について考え続けた。
当たり前だけれど、勇気とは生理的な恐怖(ライオン怖い!)と、理性や良心で感じる恐怖(愛するものを傷つけられたくないとか逃げた自分を許せないとか)を天秤にかけて、本質的に怖い方を避ける行動をするための自制心のことで、例えば街中で一人でいる時に怖そうな人に絡まれたりした時、理性的な恐怖(プライド)をかなぐり捨てて、生理的な恐怖(逃げたい!)に従って行動し一目散に逃げることも勇気な場合があるんだと思う。
だから逃げたら勇気がないわけでもないし、やっぱり逃げないほうがいい局面もある。なので勇気という言葉を逃げるか、逃げないかみたいな単純な行動と結びつけて教えてしまうとまずいんだなと思ったり。
とにかくたくさんのことを知ること。そして知ったことに基づいてよく考えること。そうやってこの場合自分にとって「ほんとに怖いこと」は何なのかを把握しようとすることこそ、勇気の源であり、「勇気」と呼ばれる態度そのものな気がした。
5才児の問いかけ、侮れんなw
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