「沖縄のピカソ小波津有希」心の傷🌈

ダウン症重度の息子有希の過去は、言葉を少し出せる過去があります。お姉ちゃんと楽しい思い出あります。自転車乗る事も小学校2年生で、姉絵美より乗れて公園で楽しい思い出もあります。ボーリングもまっすぐのイメージあって、ストライク、スペアも出せるる有希でした。満足そうで皆んなでハイタッチして、大好きな事は、無我夢中で最後迄できていました。沖縄の踊り「谷茶前」も姉二人の付き添いで行って、2歳頃から、足からリズムを取っていました。2歳5ヶ月に老人ホームの慰問で姉二人と踊りの先生の息子さんと初舞台も大成功でした。涙が出る程、皆んなの心をほぐし小さな男の子有希に声援を送っていました。ダウン症重度の息子が、酔っ払っている様な踊りに笑いありざわめいていました。成功した後、保育園、2歳8ヶ月、西原町運動公園で踊った時は、小波津のおばあちゃんも感動の涙でした。障害を克服した瞬間でした。有希3歳は、老人ホームの成年祝いで「谷茶前」踊りました。有希のお父さん、悪性リンパ腫、おばあちゃんは、白血病で、有希3歳の時に他界しました。有希の踊っている姿は、お二人にとって生前遺言が叶った時でした。サプリメント、気功、拝み500万円で健康管理して、有希1歳で終わりが、有希3歳迄延命していました。私は、何でも1%も諦めない性格です。遺族年金は、結婚生活10年の期間をクリアしていました。65歳まで、遺族年金ありました。私の友人は、結婚生活10年未満で子供達が、高校卒業した後は、遺族年金終了したそうです。夫の延命で65歳迄補償されています。65歳過ぎても年金額は、少しだけ私の受け取りの年金の差額になるそうです。夫の為に拝み、サプリメント、気功、延命した事で、有希の水化粧しているツーショットの写真は、ありません。以前の病院の医師も延命は、有りえなかったので、医師、看護師もビックリしていました。車椅子から歩いて仕事復帰をしていました。体重もMサイズからLサイズになって、長女美樹1年生に再発で他界しました。生きたくて生きること出来ませんでした。
私の母親の言霊「後か後悔するな、今必要な事しなさい。苦しい時ほど、笑いなさいでした。道が開いたら凄い事になる。」私のお告げも「人の事して得を取りなさいです。仕掛け人で、個人の名前を有希の名前のブログに最強の道案内人の力で、毎日17名の方々の個人名でGoogle.Yahooで検索可能になりました。今でも検索枠が増えています。分かっている方に感謝されています。御利益を感じています。私が、何も言わないでも、「仕掛け人の本物のプロデューサー」と言われました。その方は、高額のお金を準備しないといけない時に有希の絵画と私が描いた赤富士を持っていきなさい」でした。高額のお金の準備に追い込まれていました。私が、三角の場所に置く形で、私の赤富士を玄関に向けて飾ったら、○○さんにお金を借りなさいでお願いしたそうです。2日後に電話あって500万円を見せました。2度メッセージで、私の赤富士をプレゼントしたら、裁判で500万円は、返さないでも良かったそうです。追い詰められていた顔が、笑顔になっていました。有希の将来「沖縄のピカソ小波津有希」のネーミングで、オークションクリアしたら、凄い事になると言われました。夢に飛躍します。最強の道案内人の力が、未来奇跡は、起きると思います。皆様の応援よろしくお願い致します。㊗️🇺🇸🩷🇺🇸は母智恵美🇺🇸

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