「沖縄のピカソ小波津有希」有希3歳の時🙏沖縄の拝み🙏㊗️

「沖縄のピカソ小波津有希」の開運を引き寄せた原点㊗️小波津家の先祖供養しました。有希3歳の時でした。舅と一緒に夫、姑二人が他界した後の供養の祈り🙏救い上げの拝みも一緒に祈祷師(ユタさん)にお願いしました。お墓の名義変更の拝みの時に舅が、手を合わせた時に鼻血出た感じの本物の血🩸が、流れました。ユタさんも3人は、頭が真っ白の状態でした。私は、舅にテイシユを手渡しで拭いて貰いました。舅は、ビックリしていました。後から、判断する祈祷師(ユタさん)に舅と一緒に行ったら、「お父さんが、外で竹ホウキをする時に皆んなの命も危ない、墓口が開いて危ない」最悪の判断でした。舅は自身の命に敏感になっていました。妹の夫が、仕事解雇の時のお金半分を娘に手渡しもスムーズでした。アメリカ🇺🇸に行くお金、車、アパート代金は、守られました。私の言葉に敏感になっていました。舅の手から流れた血🩸は、目に見えない力、真心で奉仕する気持ちになりました。頑固な舅の性格迄変わっていました。生かされている命を守る舅になっていました。舅は、ペルーに行った親戚の土地も結構買っていました。財産を増やしている凄い方でした。立ち退きのお金もあって財産を増やす事に生きがいでした。緊急の時に土地を売ってもまだ財産は、有りました。舅も過去は、幼い時に母親が他界していました。父親の再婚でも、愛情受けていませんでした。働いてお金を稼ぐ為に建築の仕事で、耳も難聴になり話す声も方言で大声になっていたので、子供達との関係も上手くいかない舅でした。私は、義妹光子と一緒に舅も一緒に久高島、観光して笑っている舅の写真、義兄さんと舅の記念撮影、有希と一緒に新聞掲載も2度掲載されています。舅も他界しました。新聞掲載の写真は、水墨画家の奥原崇典先生とツーショットで書家の顔でオーラも有りました。新聞掲載2度の写真を親戚の方も喜んでいました。生きている証を公に掲載は、最高でした。人生の中で人に必要される事の喜びが、一番幸せです。愛を受け愛を与える事でも神様は、助けます。誠の心で奉仕する事で落とされても褒美もらうこと出来ます。人に与えて見返りを求め無い、やって上げた事が良しとする。人生エンジョイは、波瀾万丈の人生を乗り越えた時程、体感すると思います。先祖供養してダウン症重度の息子有希が、「沖縄のピカソ小波津有希」知的所有権受理された事も先祖も応援したと思います。開運は、出会いの人達🙏開運の道案内人の力でした。有希の夢が、叶ったら恩返ししたいです。🟣☀️☀️母智恵美🟣🟣☀️🙏🙏

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