25周年を迎える日本SF大会・第1回(1986年1月)

■1960年代

1. MEGCON

 1962年5月27日、東京は目黒。180名を集めて、日本初のSF大会が開かれた。
 会議室を利用した、たった1日のコンベンション。合宿もなく、事前登録制もない。何人集まるかも定かでない。何もかもが初めての試みだった。
「開会あいさつの中に、その日の朝ふと思いついた、『お隣の人の顔をよく見て下さい。みんなSFが好きなんです』という殺し文句(?)をはさんだら、本当にみんな、首を左右に動かしてくれたっけ」(柴野拓美、このときの主催代表)
 〈SFマガジン〉は3年目、〈ハヤカワSFシリーズ〉は5年目を迎えていたが、ファン同士のあいだにはほとんど連絡のない時代である。自分以外にもSFファンがいるということが、そのまま驚異の感覚となった。
 来場者スピーチ、講演を中心とした、素朴ともいえる「会合」である。終了後には懇親会が開かれ、自己紹介を含み夜9時まで続いたディスカッション終了後、64名による記念写真が残されている。
 主な顔ぶれが、森優[ゆう]、筒井康隆、眉村卓、柴野拓美、今日泊亜蘭[きょうどまりあらん]、星新一、光瀬龍、宮崎惇[つとむ]、紀田順一郎、広瀬正、大伴昌司[しょうじ]、小野耕世[こうせい]、手塚治虫、高斎[こうさい]正、石森章太郎、長谷[ながたに]邦夫、平井和正、豊田有恒[ありつね]、那岐大[なきたい]、伊藤典夫、斎藤伯好[はくこう]、半村良。
 ハヤカワSFコンテストが始まってまもない頃である。このとき矢野徹、38才、柴野拓美・星新一、35才。手塚治虫、33才【このときは35才と自称していた】。眉村卓・筒井康隆、27才。平井和正・豊田有恒、24才。伊藤典夫、19才。
 大会の主催は、当時すでに200名の会員を擁し、この大会で5周年を迎えた「科学創作クラブ」【のちに機関誌名にそろえて「宇宙塵」と改称】。この後も多くの作家を生み、73年まで月刊の総合誌として日本ファンダムのターミナル的な役割を果たした。74年以後も創作誌として最高の水準を誇っている【2013年、204号で終刊】。
 この大会で、もうひとつのグループが発足した。のちに「一の日会」という会合名で知られ(毎月1、11、21、31日に喫茶店に集まる。31日と1日は2日連続となる)、東京ファンダムの交流の場となる「SFマガジン同好会」である(翌年に「SFM同好会」と改称。機関誌は「宇宙気流」)。こちらも月刊で発行されつづけ、翻訳家、研究家を多数輩出する【74年に83号でいったん終了したのち、2021年の84号から不定期刊で継続されている】。

2. 成立期

「『50人くれば、まあなんとか体裁のわるくない大会ができる。そうしたら来年も第2回をやろう』くらいの姿勢だった役員は、だから本当に、うれしい悲鳴をあげたのだった。
 いきなりTOKONを名のることも考えないではなかったが、なにしろ成否のほども危ぶまれる試みなので、ひとまず遠慮しておいたというのが、まじりけなしの真相である」
 ーーMEGCONを回想して記された柴野のエッセイの一節。
 そしてMEGCONから1年5ヶ月後、第2回大会が開催された。TOKON1である。参加者数は前年を大きく上回る、300名。
 プログラムも前年とはうってかわって、映画、虫プロ短篇アニメの上映が中心に据えられた。商業誌、ファンジン即売やアート展も姿をみせ、華やかさを増している。大会前日には、60名の希望者を募って記念パーティが設けられ、ファン交流はこちらに重点が置かれた。前夜合宿も開催され24名が参加した。
 この形式は翌64年、筒井康隆が主宰していた「NULL」によって大阪で開かれた、 第3回大会・DAICON にも受け継がれる。この大会も、短篇アニメ8本の一挙上映を枕に、SF詩の朗読、『鉄腕アトム』、米版『アストロボーイ』の上映など、アトラクションに工夫が凝らされたものとなった。
 開催期日は、MEGCONが5月、TOKONが10月、DAICON が7月とまちまちだ。
 まだ夏はSF大会の季節となってはいない。
 
3. 発展期

 正式に2日間にわたるプログラムが組まれたのが65年の第4回大会TOKON2である。この大会から開催時期も8月下旬に定着する。
 400名という参加者数は、現在なら中規模大会のキャパシティだが、当時としては最大【2024年のいまから顧みると、「中規模」どころではない参加者数である。時代の変化を感じた】。この頃、毎年100人から250人が常である。実際、この記録は、ちょうど10年後のSHINCON(1000人)まで超えられていない。1000人規模の大会が定着するのは80年のTOKON7以降、つい最近のことだ。
 プログラムにディスカッションがとり入れられ、「海外SF作家論」、「ファングループ 運営論」が討論されている。ともに、この頃増加しつつあったSF出版とファングループの状況を反映したもの。パネルディスカッションも初めて登場し、さらにこの大会から「賞」が設けられた。
 「日本SFファンダム賞」がそれである【発案者は野田昌宏】。個人を対象とした功労賞として、その後も5回にわたって発行され、70年になって「星雲賞」にその役割をゆずった。
 またこの年、9団体が加盟して、日本SFファングループ連合会議が発足(初代議長・野田昌宏)。「グループ間の交流と協同を円滑にし、ファンダムの活動を促進する」(条文より)ことが求められた結果である【もっとも発案者の柴野拓美は、けして大袈裟な意図があったわけではないと語っている】。そして60年代後半、東京を中心とした大会で、この連合会議が担った役割も大きかった。

4. そして模索の時代

 再度東京を離れた第5回大会は、名古屋でのMEICON。中部地方最古参のグループ、「ミュータンツ・クラブ」の主催による。「ファン交流会」やTVアニメ試作フィルム上映も行なわれた。この大会を経て、つづく2年間は連続しての東京大会となる。主催はともに連合会議。
 TOKON3は、全面的にシンポジウム形式が採用された大会だった。4部構成で、大宮信光「SFの生命進化」、柴野拓美+広瀬正「SFの時空構造」、石原藤夫「SFと工学技術」、島本光昭「SFと少年ファン」、これに福島正実、小松左京、星新一の講演が加わる。また野田昌宏「戦略的ファン活動論」はタイトルこそものものしいが、じつは参加女性ファンを壇上にあげての公開インタビュー。こういった場所へやってくる女性が両手で数えられた時代だった。
 もうひとつ記しておきたいのが、この大会から採用された参加者の事前申込・登録制。これが現在まで続いている点だろう。それまでは当日になって来場し、参加費を払えばよかった。
 翌年のTOKON4では、ファンダムとアトラクションに重点がおかれた。「ファングループPR大会」という企画など、現在ではちょっと考えにくい。大伴昌司コレクションの上映、スライドショウ『2001 年宇宙の旅』や来場14氏のリレートーク、テレビCM、映画予告編上映は、のちのSFショー(1973 年〜。野田昌宏がはじめた)をうかがわせるようなプログラムである。
 この両東京大会、傾向はお互いに異なるが、様々な方法で大会のあり方が模索されはじめた時代だったともいえる。
 これ以後、SF大会が連続して同一の土地で開かれたことはない。「各地持ち回りの日本SF大会」というイメージが定着してゆく。
 熊本県阿蘇の温泉旅館で開かれた第8回大会、KYUCONもまた記憶されるべき大会だ。参加者100名という小さな大会でありながら、和室大広間をメインホールとし、完全合宿制が採用される。当時、1日目と2日目は別々の会場が利用されていたことを考えれば、これは画期的なことだった。主催は、秀逸なコントのセンスで有名だった九州SFクラブ「てんたくるず」。
 グループ紹介、講演、フリー・ディスカッション、パーティ、柴野拓美によるワールドコン・スライド上映、古書即売、オークション、全員参加のクイズ大会など、バラエティに富んだプログラムで、現在の地方大会のイメージに近い。麻雀はいつからともなく合宿に登場し、この頃には完全に定着している。
 この年7月20日、アポロ11号月面軟着陸。70年代に入って、日本SF大会は新たな世代のファンの手によって受け継がれてゆく。

(以下、次回)

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