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絶対に感情を表に出したくない美少女のテーゼ

(あらすじ)
寡黙な美少女としてのイメージを守り抜くため、絶対に感情を表に出したくない女子中学生・亜邪並メイ。
気になる男子の前で感情を揺さぶられ続ける彼女は、自分の気持ちを悟られないよう必死で取り繕う。
そんな時、突然、恋のライバルが現れて……。

(登場人物)
亜邪並あじゃなみメイ♀:「サイレントクールビューティー」の異名を持つ、絶対的美少女。寡黙で神秘的なイメージを崩さないように、学内では感情を表に出さないようにしている。14歳。

伊借方いかりがたギンジ♂:亜邪並に気さくに声を掛けられる唯一の男子生徒。家庭環境が複雑。14歳。

名袈裟なげさトヲル♂:謎多き転校生。亜邪並に匹敵する美貌の持ち主。14歳。


0:昼休み。中学校の教室にて。

亜邪並:《私の名前は亜邪並あじゃなみメイ。玉のように白く滑らかな肌、儚げに潤む紅い瞳、すらりと伸びた細長い手足……ご覧の通りの超絶美少女よ。その寡黙で神秘的な佇まいから、学内では、『サイレントクールビューティー』の異名を取り、クラスメイトから羨望と憧れの眼差しを一身に集めているわ。

亜邪並:あらあら、今日も哀れな仔羊たちが、遠巻きから私を眺めて何やら噂をしているようね。ほら、早速聞こえてきたわ。なになに……「綺麗すぎる」「クールな表情がたまらん」「同じ人間とは思えない」「普段、何して過ごしてるんだろう」……エトセトラエトセトラ……。ふふふ、そんなに私に興味があるなら、直接話し掛けてくればいいのに。

亜邪並:でも、そんなことは畏れ多くて出来ないのよね? 高嶺の花を地の底から見上げているだけですものね? 何せ、私はサイレントクールビューティー。絶対零度の気高さをまとい、凡俗では近寄ることすら困難なほど、神々しい存在。ああ、美しいって罪だわ! こんな私に気安く話し掛けることの出来る人なんて、この学校には……》

伊借方:亜邪並、ちょっといいかな?

亜邪並:《……いたわ。伊借方いかりがたギンジ。出席番号ニ番。何故だかこいつだけは、知り合った直後から馴れ馴れしく接してくるのよね。私の美少女オーラをモノともしないなんて、余程の鈍感か、はたまた大物なのか……。

亜邪並:ま、まあ、話し掛けてくるなら相手してあげなくもないけど……べ、別にちょっと嬉しいとかじゃないんだからね! ……ああ、ダメダメ! 気を抜くと、にやけそうになるわ! あくまでクールに……素っ気なく返事をするのよ……!》

亜邪並:……なに?

伊借方:いや、その……良い天気だね

亜邪並:そうね

伊借方:予報では、午後から雨って言ってたのになあ

亜邪並:……

伊借方:ところで、亜邪並は、イヌとネコだったら、どっちが好き?

亜邪並:どっちも好きじゃない

伊借方:そっか。僕はネコかなぁ。ああいう自由気ままな生き方って、ちょっと憧れるよね

亜邪並:そう

伊借方:えっと……

亜邪並:何か用?

伊借方:いや、用っていうか何ていうか、ははは……

亜邪並:用がないなら、あっちへ行って

伊借方:いや、ごめん、用がないわけじゃなくて、その……

亜邪並:はっきり言ってくれる?

伊借方:そうしたいのは山々なんだけどさ……。ここじゃちょっと言い辛いかな、なんて……

亜邪並:私は別に気にしないもの

伊借方:気にしたほうがいいと思うんだ。亜邪並は特に

亜邪並:どういう意味?

伊借方:えっと……本当にここで言っていいの?

亜邪並:ええ

伊借方:ふう…………。

伊借方:あのさ…………鼻毛出てるよ

亜邪並:……え?

伊借方:出てるよ、鼻毛が。亜邪並

亜邪並:はな……え? なに?

伊借方:聞こえなかった? 向かって右側の鼻の穴から……

亜邪並:少し黙って

亜邪並:《はあああああ!? 鼻毛えええ!? いきなり何言い出しちゃってんの、こいつううう!? 究極美少女生命体であるこの私が! 亜邪並メイさまが! 無様にも鼻毛を衆目に晒すなんてことあるはずが…………あるううう! こう、鼻息でそよいでる感じがありありと実感できるううう! いや、無理いいいいっ! ……はっ、ダメよ! お、落ち着くのよ! 鼻毛ごときでこんなに動揺しちゃダメ! 今まで築き上げてきたイメージを、そう簡単に崩すわけにはいかないのよー!》

亜邪並:これは、わざとよ

伊借方:え? わざと……?

亜邪並:ええ

伊借方:わざと鼻毛をそよがせているの?

亜邪並:わざと鼻毛をそよがせているのよ

伊借方:えっと……理由を聞いてもいいかな?

亜邪並:無駄だと思うわ

伊借方:何故?

亜邪並:あなたにはきっとわからないもの

伊借方:そんなの、聞いてみなきゃわからないじゃないか

亜邪並:……育てているの

伊借方:鼻毛を?

亜邪並:鼻毛を

伊借方:何のために?

亜邪並:守るため

伊借方:守るため? 何から?

亜邪並:人類の脅威から

伊借方:人類の脅威!? 急に何を言い出すんだよ、亜邪並!?

亜邪並:私も、あなたも、守られているの。ただ、それに気付かず漫然と日々を過ごしている。目には見えないものだから、気付かないフリをしているだけ

伊借方:ああ……つまり、鼻毛がウィルスの侵入を防ぐためのフィルターとしての役割を果たしている、ってことが言いたいのかな?

亜邪並:そう、誰しもが持っている心の壁

伊借方:鼻毛の話だよね?

亜邪並:鼻毛の話よ

伊借方:だからって別に、育てる必要はないんじゃない?

亜邪並:自然の摂理に逆らってはダメなの。人類はいつだって、そう。同じ過ちを幾度となく繰り返す

伊借方:いや、でも、やっぱり伸びてると邪魔でしょ?

亜邪並:…………絆だから

伊借方:鼻毛の話だよね?

亜邪並:伊借方くんには関係ないわ。そこ、どいてくれる?

伊借方:あ、えっと……

亜邪並:さようなら(勢いよく席を立つ)

伊借方:ま、待ってよ! 亜邪並!

亜邪並:(立ち止まり、悶える)うっ…………!

伊借方:ど、どうしたの……?

亜邪並:…………

伊借方:…………大丈夫?

亜邪並:涙……? 私、泣いているの……?

伊借方:うん。今、立ち上がると同時に鼻毛引き抜いてたよね。それで痛くて涙が出たんだよね。恐ろしく速い脱毛だったもんね。僕でなきゃ見逃しちゃうところだったよ

亜邪並:そう……よかったわね

伊借方:いや、どっちかと言うと見間違いであって欲しいくらいショッキングな出来事なんだけど……っていうか、抜いちゃってよかったの?

亜邪並:……ええ。多分、三本目だと思うから

伊借方:前科があったんだ

亜邪並:この毛が死んでも、代わりはいるもの

伊借方:うん、まあ、そりゃいるだろうね、沢山

亜邪並:……何故?

伊借方:え?

亜邪並:何故、呼び止めたの?

伊借方:ああ、いや、大したことじゃないんだけど……

亜邪並:なら、いい

伊借方:いや! 本当に大したことないわけじゃなくて!

亜邪並:なに?

伊借方:その、お弁当、一緒に食べないかな、って……

亜邪並:え?

伊借方:あ、もちろん無理にとは言わないけど……よかったら……どうかな?

亜邪並:《うおおおお! お弁当! 誘われちゃったあああ! 思えば、中学に入って以来、ミステリアスなイメージを作り上げるため、人前では絶対に食事を取らないようにしていたせいで、いつの間にか便所飯の達人になってしまっていたんだけど……アホか! 美少女でも飯くらい食うわ! ジャンクフードとか大好きだわ! ああ、だから食べたい! 一緒に仲良くお弁当食べたーい! 

亜邪並:でも、ダメよ! ここで喜びを露わにしてしまっては、サイレントクールビューティーの名折れ。ここは、あくまで若干迷惑そうな雰囲気を醸し出しつつ、かといって明確な拒絶を示しているわけではないという絶妙な態度が求められるのだわ!》

亜邪並:……好きにしたら?

伊借方:うん。じゃあ、お弁当持ってくるよ。机くっつけてもいいかな?

亜邪並:ええ

伊借方:……よし。これで準備オーケー。それじゃあ、いただきます

亜邪並:いただきます

伊借方:あれ? そう言えば、亜邪並のお弁当って初めて見るけど……それ、何?

亜邪並:しょうゆラーメン。チャーシュー抜き

伊借方:ラーメン!? お弁当にラーメン!?

亜邪並:肉、苦手だもの

伊借方:そういう問題なの!?

亜邪並:私には他に何もないもの

伊借方:いやいや、絶対あるでしょ、もっと他に相応しいのが

亜邪並:命令があれば、そうするわ

伊借方:違うよ、命令とかじゃなくてさ……亜邪並は好きな物とか……

名袈裟:やあ、ここにいたんだね。探したよ、伊借方ギンジくん

伊借方:あっ、君は……名袈裟なげさくん……! 

亜邪並:……誰?

伊借方:そうか、亜邪並は学校休んでたから知らなかったよね。

伊借方:紹介するよ。彼は、名袈裟トヲルくん。昨日、隣のクラスに転入してきたんだ

名袈裟:はじめまして。

名袈裟:……おや? 君は……

亜邪並:なに?

名袈裟:そうか……そういうことか。

名袈裟:ふふふ……

亜邪並:《なっ、なっ、何なのよ、こいつ……! 人が折角、伊借方くんと楽しくランチしてるっていうのに…………! っていうか、なに、この男……異次元レベルの美少年じゃん!! え、ちょっと待って。これ、下手したら、私より綺麗なんじゃない? ありえないんだけど!? 容姿でこいつに負けたら、私のアイデンティティはどうなっちゃうのよ!? あー、イライラする! こいつ、邪魔邪魔邪魔邪魔!》

名袈裟:君のことなら聞き及んでいるよ。サイレントクールビューティー……亜邪並メイさん

亜邪並:……騒がしいのは苦手なんだけど

伊借方:あ、そうだったよね。ごめん、亜邪並

名袈裟:これはこれは。お邪魔だったかい? 

伊借方:いいよ、気にしないで。それじゃあ、行こうか、名袈裟くん

亜邪並:え?

伊借方:ん?

亜邪並:どういうこと?

伊借方:え? だって、騒がしいのは苦手なんでしょ、亜邪並は

亜邪並:そうだけど……

伊借方:だから移動しようかと思って

亜邪並:移動?

伊借方:うん

亜邪並:……彼と二人で?

伊借方:そうだよ?

亜邪並:《はああああ!? ちょっ……はああああ!? 何なの!? その冷徹な判断、何なの!? そんな選択肢ある!? よしんばあったとして、初回は絶対に選ばないやつじゃん!? え、私を攻略したいんじゃないの!? 名袈裟ルートに向かうつもりなの!? と、とにかく軌道修正しなきゃ……!》

亜邪並:あなたは行かないわ。私と食べるもの

伊借方:いや、でも……

名袈裟:まあまあ、彼女もこう言ってくれていることだし、そうやって無理に気を遣わなくてもいいんだよ

伊借方:僕は……ここにいてもいいの?

名袈裟:その通りさ。おめでとう、伊借方ギンジくん

伊借方:名袈裟くん……ありがとう……!

亜邪並:《おうおう、爽やかスマイルかましてくれちゃって、まあ……。気に入らないわね、名袈裟トヲル……! こいつがいなくなれば万事解決だっつーのに、空気読めっての!

亜邪並:何かこいつの弱みでも握れないかしら? 何か……あ! もしかして、こいつ、ズボンのチャック全開じゃない!? 気づいてないの!? ぶっ! くひひひ……間抜けすぎる……! イケメンなだけに余計に間抜けさが際立つ……! ひいっ! ああ、やばい、めっちゃ笑えてきた……! ダメ! 我慢して! こらえるのよ、亜邪並メイ……!》

名袈裟:顔色が悪いみたいだね。どうかしたのかい?

亜邪並:………………

名袈裟:具合でも悪いのかい?

亜邪並:…………(顔を背けて)へぶふぉっ!

伊借方:なに、今の?

亜邪並:…………くしゃみよ。気にしないで

伊借方:そっか

亜邪並:それより、あなたたち、随分、仲が良いみたいね

名袈裟:僕たちのことが気になるかい?

亜邪並:別に……。私には関係ないもの

名袈裟:怖いのかい? 人に干渉するのが。でも、怖がってばかりじゃ、前には進めないよ

亜邪並:知った風な口をきかないで

伊借方:そうだよ、名袈裟くん。初対面なのに失礼だよ

名袈裟:でも、君は受け入れてくれただろ?

伊借方:え? いや、それは……

名袈裟:君のその繊細な心遣い。興味に値するよ

伊借方:興味……?

名袈裟:気に入ったってことさ

伊借方:……!

亜邪並:《ちょいちょいちょいちょい、何よ、これ!?  え、こいつら、昨日知り合ったんでしょ? 距離感おかしくない? ほら、伊借方くんなんて頬を赤らめちゃってるし! っていうか、こんな至近距離でBLフィールド展開されたら、興奮するんですけど!?

亜邪並:ああ、でも、ダメ! 私が結構えげつないレベルの腐女子だってこと、絶対に悟られるわけにはいかないわ! そうよ、そのために、本来なら昼休みにBL小説を読みふけりたいところを我慢して、遺伝子工学の原書なんかカッコつけて読んでたんじゃない! 内容なんて一ミリもわかりゃしないのに!》

名袈裟:ふふふ……

亜邪並:……さっきから、なに?

名袈裟:一目見たときから感じていたんだ。君は僕と近しい存在だってことをね

亜邪並:何を、言うのよ

名袈裟:君のカバンからはみ出しているのが見えたんだ。その眼鏡ケース……『ド畜生眼鏡』の初回限定盤に付属している物に間違いない。……だろ?

亜邪並:!

伊借方:ド畜生眼鏡……?

名袈裟:パソコン用のBLゲームさ。十八禁のね

伊借方:え、それって……

名袈裟:普段はヘタレだが、ひとたび眼鏡を装着すれば、たちまち男を凌辱(りょうじょく)したくなってしまう……。SとMは等価値なんだ。僕にとってはね

伊借方:わからないよ……君が何を言ってるのか、全然わからないよ、名袈裟くん!?

名袈裟:いずれわかるよ。その時が来ればね

亜邪並:《ぐああああっ! やらかしたあああ! 間違えて眼鏡ケース持って来たあああ! 痛恨のミス! っていうか、なんで名袈裟が十八禁BLゲームのことなんて知ってんのよ! 中学生でしょ!? 私もだけど!

亜邪並:いや、今はそんなことより、どうにかして誤魔化さなくては……! 清楚なイメージを死守するのよ!》

亜邪並:……何か誤解しているようね。私はそんなゲームのことなんて知らないわ

伊借方:でも、それ、亜邪並の物なんじゃ……

亜邪並:もらったの

伊借方:もらった? 誰から?

亜邪並:あなたのお父さんから

伊借方:父さんから!? なんで!? 

亜邪並:……機密事項。民間人には教えられない決まりなの

伊借方:君も民間人だよね!?

伊借方:どういうことだよ……。父さんは一体、何をやっているんだ……?

亜邪並:信じられないの? お父さんのことが

伊借方:少なくとも、ド畜生眼鏡の件については信じられないよね

亜邪並:お父さんの子供なのに?

伊借方:……父さんとは幼い頃に生き別れたんだ。今、どこで何をしているのかもわからない。父さんのこと知ってるなら、僕に教えてくれよ、亜邪並!

亜邪並:知りたい?

伊借方:うん

亜邪並:そう。なら……

名袈裟:君のお父さんのことなら、僕が知っているよ、伊借方ギンジくん

伊借方:ほ、本当かい、名袈裟くん!?

名袈裟:ああ。僕がこの学校に送り込まれてきたのも、君のお父さんの差し金だ

伊借方:なんだって……!?

名袈裟:一人息子に同い年の友人をあてがってやろうという親心だよ。泣かせる話じゃないか

伊借方:そうか……父さんは僕のことを見捨てたわけじゃなかったんだ……!

亜邪並:《え? え? そうなの? 伊借方くんのお父さんのことなんて本当は何も知らないけど、そうなの? 

亜邪並:思わせ振りな態度で彼の気を引こうと思ったのに、これじゃ……》

名袈裟:くくく……

亜邪並:《いえ……違うわ! あの勝ち誇ったようなヤツの薄ら笑い……! きっと私の目論見を看破したんだわ! その上で、伊借方くんが重度のファザコンであることを見抜くや否や、転校生という立場を利用して父親との繋がりをでっち上げた……。純真無垢な彼の心につけ入り、籠絡ろうらくしてやろうという魂胆なのね……! 名袈裟トヲル……とんだ曲者だわ!》

亜邪並:落ち着いて、伊借方くん。彼の言っていることは……

伊借方:父さんのこと、もっとよく聞かせてよ、名袈裟くん

名袈裟:焦ってはダメだよ。また、二人きりのときに……ね

伊借方:う、うん。へへへ……

亜邪並:《ああああ、興奮するー! と同時にイライラするー! いや、無理! 何なのよ! こんな美少女を差し置いて二人で盛り上がっちゃってさ! 見て! もっと私を見て! ああ、さっきから行き場を失った感情が全身を渦巻いて、おかしくなりそう……!》

伊借方:あれ? どうしたの、亜邪並……?

亜邪並:《本当に何なの……? 折角、声掛けてもらったのに……仲良くなれるチャンスだったのに……どうしてこんなにうまくいかないの……? もう嫌! 泣きたい! 喚きたい! 怒鳴りたい! 皆と一緒に思いっきり笑いたい!》

伊借方:おーい、亜邪並……?

亜邪並:《でも、ダメよ! ここで感情を爆発させたりなんて絶対に許されない! だって、私は……私は……! ああっ、もうダメ、意識が…………!(気絶して倒れる)》

伊借方:あ、亜邪並! 大丈夫か、亜邪並ー!!

0:保健室にて。ベッドに横たわる亜邪並。

亜邪並:うーん…………はっ……!

伊借方:あっ、よかった! 気がついたんだね、亜邪並

亜邪並:伊借方くん……? ここは……?

伊借方:保健室だよ。

伊借方:急に倒れたりするから、ビックリしたよ。大丈夫? 気分悪くない?

亜邪並:平気……。あなたが運んでくれたの?

伊借方:うん

亜邪並:そう……ありがとう

伊借方:え……

亜邪並:どうしたの?

伊借方:いや、「ありがとう」って……亜邪並の口から初めて聞いたからさ

亜邪並:……そうだったかしら

伊借方:うん

亜邪並:心の中では、いつもそう思っているのにね。やはり、言葉というのは、相手に伝えてこそ意味があるものなのだわ。

亜邪並:伊借方くん、あなただけよ。私と普通に接してくれるのは。そのことを、私はとても感謝しているの

伊借方:亜邪並……

亜邪並:滑稽な話ね。上っ面だけのくだらない虚像を作り上げるため、人形のように感情を押し殺していたせいで、いつしか私は完全に孤立してしまっていたのだわ。サイレントクールビューティーだなんてもてはやされて、いい気になっていた報いよ

伊借方:滑稽だなんて、そんなこと言うなよ……。君は周りからの期待に応えて、理想の姿を壊さないよう、必死で頑張っていただけじゃないか

亜邪並:……不思議だわ。どうして、そうやって私のことを気に掛けてくれるの?

伊借方:……君が母さんに似てたから……かな

亜邪並:お母さんに……?

伊借方:うん。小さい頃に死んじゃったから、はっきりとは覚えてないんだけどね

亜邪並:そう……お母さんも私みたいに無表情な方だったの?

伊借方:無表情? 君が? (笑って)何言ってるんだよ

亜邪並:え?

伊借方:今日だって、喜んだり、怒ったり、悲しんだり、笑ったり……沢山してただろ? 君は人形なんかじゃない。血の通った立派な人間だ

亜邪並:伊借方くん……

伊借方:一見わかりにくいけれど、よく見ると、とてもわかりやすい。そういうところが、母さんにそっくりだったんだよ

亜邪並:……何もかもお見通しだったのね。何だか恥ずかしいわ

伊借方:ああ、なんか、偉そうにしちゃって……ごめん!

亜邪並:いいえ、そんなことない。伊借方くんと一緒に過ごしていると、心が温かくなるの。

亜邪並:あの……もし、よかったら……私の友達になってくれないかしら?

伊借方:酷いなぁ、亜邪並は

亜邪並:え?

伊借方:僕はもう、とっくに君と友達のつもりだったんだけどな……

亜邪並:そ、それじゃあ……

伊借方:うん。これからもよろしく、亜邪並

亜邪並:こ、こちらこそ、よろしく……です……!

伊借方:それにしても、驚いたよ。まさか亜邪並がこんなに一杯話してくれるなんて

亜邪並:こう見えて、案外おしゃべりなのよ。覚えておいてね

伊借方:ぷっ

亜邪並:ふふっ

伊借方:ははは

亜邪並:あはははっ!

亜邪並:ああ、楽しい……! 誰かとこんな風に笑い合えたのなんて久し振り! ありがとう、伊借方くん

伊借方:君が喜んでくれて、僕も嬉しいよ

名袈裟:やあ、すっかり元気になったみたいだね

伊借方:トヲルくん!

亜邪並:…………何しに来たの

名袈裟:これは、ご挨拶だなぁ。随分と嫌われてしまったものだね

伊借方:亜邪並、トヲルくんは、君をここまで運ぶのを手伝ってくれたんだよ

亜邪並:そう……あなたにも迷惑かけたわね

名袈裟:おや、僕には感謝の言葉はないのかい?

亜邪並:……別に、頼んだわけじゃない

伊借方:亜邪並!

亜邪並:……ごめんなさい。ありがとう、名袈裟くん

名袈裟:ふむ。やはり感謝の言葉はいいね。心を満たしてくれる。人類の生み出した叡智えいちの極みだよ。

名袈裟:ところで、決心はついたかい、ギンジくん?

伊借方:うん。君の言う通りにするよ、トヲルくん

亜邪並:……何の話?

伊借方:トヲルくんが約束してくれたんだ。父さんと会わせてくれるって

亜邪並:え?

名袈裟:僕が直接、ギンジくんのお父さんを説得したのさ。彼も最初は恥ずかしがっていたんだけどね。成長した息子に一目会いたいという気持ちには勝てなかったようだよ。感動の親子ご対面というわけさ

亜邪並:そんな……あの話は口から出まかせではなかったというの……?

名袈裟:出まかせ? 何の話だい? 僕がそんなことを言うはずがないだろう? 

伊借方:父さんと再会したら、おそらく一緒に住むことになると思う。近々、今の家を引っ越すことになるよ

亜邪並:引っ越すって……本当なの……!?

伊借方:うん

亜邪並:ま、待って! 嫌よ! 転校しちゃうなんて絶対に嫌! 折角、仲良くなれたのに……そんなのって……!

伊借方:ちょっと、落ち着いてよ、亜邪並! 転校するなんて一言も言ってないじゃないか

亜邪並:え……?

伊借方:隣町なんだ、父さんの家。そこから、今まで通りこの学校に通えるんだよ

亜邪並:そ、そうだったのね。よかった……

名袈裟:よし。そうと決まれば、僕も引っ越しの準備をしなきゃね

亜邪並:は? なんで、あなたまで……?

名袈裟:決まってるだろ? 一緒に住むんだよ、彼と

亜邪並:はあああ!?

伊借方:ほ、本当に!? 父さんの許可はもらえたの!?

名袈裟:ああ。君のお父さんも僕たちのことを歓迎してくれているよ

亜邪並:どういうこと……? もしかして、あなたたち、デキてるの……?

伊借方:えっと……うん、まあ、そういうことになるのかな……?

亜邪並:うっ! い、いつの間に、そんなことに……!

伊借方:君が意識を失った時、僕はあわてふためくばかりで何も出来なかったんだ。そんな時、僕の代わりにテキパキと動く彼の姿がカッコ良く映って、その……

名袈裟:初めての共同作業を通じて、僕たちの仲は深まったということさ。そういう意味では、君に感謝しているよ、亜邪並メイさん

亜邪並:そんな……

名袈裟:さあ、これから楽しい同棲生活の始まりだ。必ず幸せになろうね、伊借方ギンジくん

伊借方:嬉しいよ、トヲルくん。僕も……って、わあっ! トヲルくん、チャックが全開じゃないか! 何やってるんだよ!?

名袈裟:心の壁なんて必要ないのさ。僕と君との間にはね

伊借方:心の壁、そこにあったの!?

名袈裟:君と出会えたこと……生まれたことに、僕はとても感謝しているよ

伊借方:トヲルくん……!

亜邪並:………………

伊借方:あれ? どうしたの、亜邪並?

亜邪並:…………ごめんなさい。こういう時、どんな表情すればいいかわからなくて……

伊借方:……笑えばいいんじゃない?

亜邪並:いや、笑えるかあああ! あんた、バカァァァァ!?

(了)


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