映画で人生を1割り増しに面白くする方法

この文章は、「#映画にまつわる思い出」投稿テーマの参考作品として、株式会社WOWOWの依頼により書いたものです。

名作映画と呼ばれるものには、観る者に「これは自分のための作品だ」と思わせる魅力がある。

僕にもそう思える作品がたくさんあるが、今回はその中から意外なカタチでそう思うことになった作品を紹介したい。

まだ僕が芸人として箸にも棒にも引っかかっていない2016年、『ラ・ラ・ランド』を観に行った。 ハリウッドで成功を夢見る男女の物語だ。

映画はロサンゼルスの高速道路で人々が踊り歌うシーンから始まる。

が、始まってまもなく、僕はひどく困惑した。

決して、作中のシーンそのものに困惑したわけではない。

困惑したのは......無音だったからだ。

観た人なら分かると思うが、『ラ・ラ・ランド』にそんなシーンはない。何かしらのトラブルでたまたま音が流れなかったのだ。

すぐに観客全員の困惑した空気が館内に充満した。

だが、誰も動こうとはしない。

きっと、意図的にこういう演出をした可能性も0ではないと思ったからだろう。

それもそのはずで、その日は日本公開初日、しかも午前中。そこにいる全員にとって、初めての『ラ・ラ・ランド』に違いなかった。

異様な緊張感の中、スクリーンではサイレントの歌唱シーンが流れ続けていた。

そしてそのシーンの後、エマ・ストーンの会話シーンも無音であることを確認すると、4、5人の客が立ち上がり、外のスタッフを呼びに行った。

ほどなくスタッフが入ってきて、映画は止まり、場内が明るくなった。どよめく館内。どうやら機材にトラブルがあったため、点検が終わり次第もう一度最初から本編を流すとのことだった。

そして「時間に余裕のない方には、無料でもう一度作品を観られるチケットを配ります」と。

時間だけはたっぷりとあった僕は、そのままもう一度観ることにした。そして物語が進んでいくと、あるシーンで驚愕した。

それは主人公のミアとセブが映画館に行くシーン。

なんと、その劇中の彼らが足を運んだ映画館でトラブルが起こり、上映が停止したのだ。スクリーンには顔を見合わせて映画館を後にするふたり。

これには、心底驚いた。

この映画と現実の奇跡的なシンクロ。

僕以外にも数人はハッとしている様子だったが、ほとんどの人は気にも留めていないようだった。

僕は尋常じゃなく興奮した。

たまたま起こった「映画と現実がリンクした事実」への驚きはもちろん、このことが何か示唆的な、自分にとって特別な出来事のように感じられたからだ。

もしこの出来事を利己的、かつ、起こるべくして起こった必然として“映画的に”解釈するならば、

それは劇中のハリウッドで夢を追う主人公たちの人生と、それを観る、東京で夢を追う芸人の人生が繋がった瞬間であり、

まさにその時、僕は劇中劇を観ている映画の主人公そのものだった。

夢を追う彼らは僕自身なのだ。

それから僕は、主人公のふたりに異常なほど感情移入をしながら観るという、映画を愛する人間としては完全に間違ったテンションで作品にのぞんだ。

バイトをするセブにひどく同情し、自分の単独公演で手売りもせずに少ない客入りに文句を言うミアに怒りを覚えながら見終わった2時間。

結局、内容は全然頭に入ってこなかった。

テンションを間違ったから当然だ。

後日もう一度落ち着いた状態で『ラ・ラ・ランド』を観ることを余儀なくされた。

映画の中では、起こること全てに意味がある。全てが運命的だ。映画館に足を運ぶ人々は、そもそも運命的な何かを求めて映画を観るのかもしれない。  

そしてもし現実も映画の中のように全てに意味があるのかもしれないと考えられたら……些細なことも運命的なものに感じられて、ほんの少し、おそらく1割増しくらいは人生が面白くなると僕は思うのだ。

6年前、予定日を過ぎてもなかなか陣痛が来ない妻と観に行った『エイリアン・コヴェナント』。

夫婦共に『エイリアン』シリーズが好きで、あまりに陣痛の予兆がないことに痺れを切らして観に行くことになった。

『エイリアン』といえば、そう。

お腹の中をうごめく、例のアレだ。    

その映画を観た翌日、なんと妻に陣痛が来た。

これも奇妙なシンクロだと思えると、人生はちょっとばかり面白い。

#映画にまつわる思い出

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