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前方後円墳を推理する 【形状が似ている大仙陵古墳と神鏡】
【古墳時代を解き明かす①】
はじめに
日本書紀に『天皇が国の政をはじめた日、道臣命は密策を承り、諷歌、倒語で妖気をはらい平らげた』とあります。国のはじまりが密策というのも不可思議なことですが、天皇から承った密策とはどんな策だったのか、諷歌、倒語、妖気とは何なのか分かっていません。
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又、日本が統一国家として誕生したのはいつか、そのプロセスはどのようなものだったのか、これも解明されていません。古代日本には他にも多くの謎が潜んでいます。それは、基となる日本書紀や古事記の多くが神話的で、どこまで史実なのか分からないことや、古代日本を知る手掛かりとなる中国の歴史書に、倭女王の朝貢した二六六年から倭王讃の朝貢した四一三年までの間、倭の記録が無いことです。そして、最も分かりづらくしているのが前方後円墳の存在です。
前方後円墳は、同じ規格のものを全国に五千基以上造るという、言わば国をあげての一大プロジェクトで、規模もエジプト クフ王のピラミッド、中国 秦の始皇帝陵とならぶ世界三大墳墓のひとつ大仙陵古墳のような巨大なものもあります。しかし、このプロジェクトが何を目的としたものか分かっていません。又、その形が何をあらわしているのかも分かっていません。海岸沿いや山の尾根など目立つ場所に造られたものも数多くありますが、一体誰に見せようとしたのか分かっていません。円筒埴輪が墳上に並べ立てられた理由も分かっていません。
前方後円墳が造られた古墳時代は、天皇が政治の中心だった飛鳥時代の直前の時代で、天皇中心の政治体制に至る様々な事象を内包していると考えられます。謎に包まれた古墳時代の解明には、前方後円墳の隠れた事実を明らかにすることが肝要と考えます。
《 前方後円墳を推理する 》
前方後円墳は古墳時代を代表する墳墓で、円形と台形が組み合わさった独特な形をしています。この形が何をあらわし、何を意図して造ったものか分かっていません。考察してみます。
① 前方後円墳の独特な形は地上から見ても分からず、天からしか見えません。天に見せるために造ったものと考えられます。
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地上からはただの小山にしか見えませんが、天からは独特な形がはっきり見えます
天に見せるのは当然ながら貴いものだと思います。当時の貴いものといえば銅鏡が考えられます。当時の人が銅鏡を強く意識していたことは初期の前方後円墳に多数の銅鏡が副葬され、それが初期前方後円墳の特徴と言われていることからもうかがい知れます。
日本書紀に、イザナギが白銅鏡を手に持つとそれが変化して、左右それぞれの手から神が生まれたとの記述があります。天上界と銅鏡の深いつながりを感じさせます。
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銅鏡と前方後円墳のつながりを考えてみます。前方後円墳を上空から見ると、円形と台形が組み合わさったように見えます。これを、それぞれ似通っている、円形を銅鏡、台形を台座と見立てれば、『台座に載った銅鏡』の姿となります。一般家庭の神棚にある、雲形台に載った神鏡の姿を想像すれば近いと思います。
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古代に於いて、銅鏡は台座に載せ掲げてあったと思われます。前方後円墳はそれを模して、天からも台座に載った銅鏡の姿が見えるようにしたものと推測されます。そして、神棚の神鏡は、家族を護るものとして、それが、現代まで伝わってきたと思われます。天に願い事をするに、鏡を通して祈るのは、古代も現代も変わらないということになります。
② 前方後円墳と同じ頃造られた墳墓に前方後方墳があります。前方部分は前方後円墳と同じ台形で、後方部分が前方後円墳の円形とは異なり、方形になっているものです。前方部分の台形が同じことから、両者には何らかのつながりがあると考えられます。その観点から銅鏡を考えてみます、銅鏡には一般的な円い銅鏡の他に方鏡という方形の銅鏡があります。この『方形の銅鏡』を台座に載せたものが前方後方墳ということになります。
つまり、前方後円墳 前方後方墳は、共に銅鏡を台座に載せ天に掲げたもので、違いは台座に載せた銅鏡が円形か方形かの差だけということになります。
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③ 帆立貝式古墳、双方中円墳、柄鏡式古墳など形の異なる墳墓も、基本的には銅鏡を天に向け掲げたもので、載せる台座が異なっているだけと思われます。
帆立貝式古墳は低い台座に銅鏡を載せたものであり(下図)、
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双方中円墳は天空の左右どちらの方向から見ても、台座に載せた銅鏡が、それと分かるように工夫したと思われ(下図)、
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柄鏡式古墳は、前方部が細長く全体が柄鏡の形をしたものです。これは細長い台座に銅鏡を載せた姿を模していると考えら、和歌山県朝熊岳金剛證寺の神鏡にその原形を見ることが出来ます(下図 写真)。
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④ 日本書紀に描かれている天孫降臨の場面で、天照大神が天忍穂耳尊に鏡を授け、『鏡を私だと思って祀りなさい』という一節があります。【尚、天孫降臨は天忍穂耳尊の子の瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に委ねられます】
又、古事記の天孫降臨の場面では『この鏡を私の御魂と思い奉りなさい』とあります。日本書紀、古事記いずれも鏡を貴いものと捉え、祀ることを求めています。前方後円墳は記紀編纂の少し前まで造られていましたから、編纂者はこの墳墓が銅鏡を台座に載せた形であることを知っていて、その形が天からしか見えないことから、天上界に向け祀ったものと考え、『鏡を祀れ』という説話を創作したと推測されます。
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⑤ 風土記のなかに、前方後円墳と鏡のつながりを思わせる記述があります。常陸国風土記の久慈郡の項にある『東 山石鏡』からはじまる一文です。一文全体の考察は後述しますが、記述内容からして『山石鏡』は前方後円墳を指していると思われます。それは、『山石鏡』を『山のごとく石を積みあげた鏡』と読み解けば、前方後円墳のことだと推測できるからです。
古墳時代は、下掲写真のような「山のごとく石を積み上げた鏡(山石鏡)」の墳墓が全国各地に造られたのです。
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長野県千曲市 森将軍塚古墳
⑥ 茨城県ひたちなか市の『常陸鏡塚』や大阪府八尾市の『鏡塚古墳』(ともに前方後円墳)など名称に鏡の付いた墳墓があります。これは、台座に載せた鏡のことが、『鏡塚』という名称になって現在まで伝わってきたと思われます。
⑦ 岩波新書「前方後円墳の世界」(広瀬和雄著)に、『後円部墳頂の内方外円区画は、大地は方形で人の住む空間、天は円形で神の住む空間という、古代中国の天円地方の観念をあらわしたものです。それを具体的に表現するのは後漢鏡の方格規矩四神鏡です』という記述があります。
これは拙論の考えからすると、内方外円区画のある前方後円墳は、天円地方の観念をあらわした方格規矩四神鏡という銅鏡を台座に載せた姿となります。方格規矩四神鏡は漢時代に盛んにつくられ、朝鮮半島を経て日本にも数多くもたらされていましたから、これを模した前方後円墳が造られたことは十分考えられます。
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(まとめ)
前方後円墳は、『台座に載せた銅鏡』の形をあらわしており、銅鏡を天に掲げたものと考えます。前方後方墳、帆立貝式古墳、双方中円墳、柄鏡式古墳など形の異なる墳墓も、基本は『台座に載せた銅鏡』で、銅鏡の種類や台座の形状が異なっているだけと考えます。すなわち、前方後円墳と前方後方墳の違いは掲げた銅鏡が円形か方形かの差であり。帆立貝式古墳、双方中円墳、柄鏡式古墳などは銅鏡を載せる台座の、形状の差ということです。
天へ願いごとをするに、鏡を通して祈るのは古代も現代も変わらないことになります。
《 前方後円墳を推理する 》 終わり
次回は 古墳時代を解き明かす② 高句麗の南下と倭の統一
自著 密策(講談社エディトリアル)より
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