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高句麗の南下と倭の統一【ヘッダー画像は四世紀初頭の朝鮮半島勢力図】

【古墳時代を解き明かす②】
《 統一国家誕生を探る 》
 世界の多くの国は建国の歴史を持っています。しかし、日本には神話以外それらしい歴史がありません。古代日本は魏志倭人伝にあるように、多くの国が分立していたと思われます。その多くの国が統一国家として一つにまとまった理由は何か、それはいつのことか、考察してみます。
   

『百余の国』があったと書かれている魏志倭人伝

①  統一国家に類する最古の記録としては、幾つもの国が一人の女王を擁立した、卑弥呼女王の共立があります。
魏志倭人伝には、『倭国乱れて相攻伐し年を歴る 一女子を共立し王と為す 名は卑弥呼という』とあります。これは、卑弥呼が女王に擁立されるまでを描いた場面です。ここで注目すべきは相攻伐するような激しい戦いがあった後に、卑弥呼を女王として共立していることです。激しく戦った相手とともに女王を擁立するというのは妙なことです。常識的には、戦いの後の王は戦いの勝者が就くはずです。しかし、そうはなっていません、不可解とも言えますが、これには以下のことが考えられます。魏志倭人伝後半に、『倭の女王卑弥呼は狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず、倭の載斯烏越等を遣わし郡に詣り、相攻撃する状を説く』との記述があります。これは、卑弥呼が、狗奴国と戦争状態にあることを帯方郡へ報告した部分です。この中に、倭の女王卑弥呼は狗奴国の男王卑弥弓呼と『素より和せず』とあります。『素より和せず』から推察しますと、倭国と狗奴国は元々不仲の、いわば宿敵のような関係だったと思われます。倭の国々が相攻伐で疲弊した時を狙って宿敵の狗奴国が侵入、倭の国々は相攻伐している場合ではなくなり、結束して狗奴国と戦わなければならなくなったと思われます。そして、結束して戦うためには共通の王が必要となり、卑弥呼女王を共立したと考えられます。狗奴国侵入という外圧が、各国を協力し合う方向に向わせ、卑弥呼女王の下に、一つの国として、まとまることになったと考えられます。

卑弥呼女王共立を描いた 魏志倭人伝
上掲 魏志倭人伝の現代語訳
卑弥呼女王と狗奴国の不仲を描いた魏志倭人伝
上掲 魏志倭人伝の現代語訳

 ○  これに類似した出来事が同じ魏志倭人伝に、『男王を立てるも国中服せず、更に相誅殺、当時千余人が殺される。復、十三歳の卑弥呼の宗女壱与を立て王と為し、国中遂に定まれり』と書かれている壱与女王の擁立があります。卑弥呼の擁立前は相攻伐、壱与の擁立前は相誅殺と異なっていますが、擁立前に激しい戦いがあったことは同じです。この場合も、相誅殺で疲弊したところを宿敵の狗奴国が侵入してきたと思われます。外圧を受けると、まとまり、協力し合うのはよくあることだったと推測されます。
○  卑弥呼女王・壱与女王とも、はじめは権限のない名目だけの女王だったと考えます。述べたように勝者が女王になったのではなく、結束するための女王だからです。これがよく分かるのは壱与女王の場合です。壱与は十三歳で女王になったとあります。相誅殺で千人余りも殺された国内を十三歳の子供が治められるとは思えません。名目と考えるのが自然です。

卑弥呼死後壱与女王擁立までを描いた魏志倭人伝
上掲 魏志倭人伝の現代語訳

② 歴史は繰り返すといいます。前項の、狗奴国侵入という外圧を受け、国々が一つにまとまった歴史も繰り返されたのではないか、この観点から日本の統一国家成立を探ってみます。まず、まとまるためには、それらの国がひとしく外圧を感じなくてはなりません。当時、日本列島の全ての国が外圧を感じたとすれば、それは中国か朝鮮半島だと思われます。それぞれについて考えてみます。
【中国からの圧力】
漢の時代は奴国が『漢委奴国王』を、魏の時代は卑弥呼が『親魏倭王』の称号を授かり、晋の時代には倭の女王が朝貢したと記録にあります。ここまでは交流が続いていますから圧力を感じることはなかったと思います。そして、晋以降の中国は統一王朝がなくなり、五八九年隋による再統一までは十六国・南北朝時代と呼ばれる混乱期で日本に関心が向くとは考えられません。隋による再統一後は、遣隋使の派遣により国交が成立しています。こうしてみますと、該当すると思われるいずれの時代も、中国に対して圧力を感じることはなかったと考えられます。

卑弥呼女王が『親魏倭王』の称号を授かる場面を描いた魏志倭人伝
上掲 魏志倭人伝 該当個所の原文
上掲 魏志倭人伝 該当個所の現代語訳

【朝鮮半島からの圧力】
朝鮮半島は、三世紀末まで中国が楽浪郡、帯方郡などを置いて支配していました。倭は両郡を通じて中国と交流していましたから、この時期に朝鮮半島から圧力を感じることはなかったと思われます。そして、四世紀中頃百済、新羅が誕生してからは、既に建国していた高句麗との間で、朝鮮半島の覇権をかけた争いが長く続いています。日本は支援を求められることはあっても、圧力を感じることはなかったと思います。しかし、これに挟まれた四世紀初め、楽浪郡、帯方郡を滅亡に追い込んだ高句麗に対しては、強い圧力を感じたと思います。
 ※以下高句麗について考えてみます。
大陸から朝鮮半島付根にかけてあった高句麗は、衰退期を迎えていた中国晋の混乱に乗じ勢力を伸ばし、十五代美川王の時代には中国支配地域を次々と攻撃しています。
それは、
三〇二年 三万の軍で玄菟郡に侵入、捕虜八千人を平壌に移住させる。
三一一年 遼東郡の西安平を襲撃して奪い取る。
三一三年 楽浪郡を滅ぼす。
三一四年 帯方郡を滅ぼす。
三一五年 玄菟城を攻め、多くの人を殺害また捕虜とする。
などです。
この中で、楽浪郡、帯方郡が滅ぼされたことは、倭の国々に大きな衝撃を与えたと思います。両郡は中国との交流の窓口であり、ここの消滅は中国との交流が途切れることになるからです。更に、当時の朝鮮半島に百済、新羅はまだ誕生しておらず、南部に馬韓などの部族集団があった程度でしたから、両郡を滅ぼした高句麗が半島を南下、倭にも攻め込んで来るのではないかと危機感を抱いたことは容易に想像できます。又、高句麗伝によれば、高句麗人は凶暴、短気、略奪好きなどとあります。こんな噂は恐れに輪をかけたと思います。中国を宗主国と仰ぐ倭にとって、その支配地域を撃破、南下してくる高句麗は、恐怖以外の何ものでもない外圧だったと思われます。
 *次に、高句麗から外圧を受けた倭が、どんな行動をとったか考えてみます。その頃の日本は、魏志倭人伝に幾つもの国名が出てくるように、多くの豪族が国を名乗って分立していたと思われます。高句麗は中国を攻撃するほどの軍事力を持った国です。豪族程度の小さな国が、単独で為す術などなく、結束し、倭を護る方策を練ったと思われます。国々が結束したことは、同じ規格の前方後円墳が、全国で造られていることからもうかがい知れます。そして、詳細は後述(次回予定、前方後円墳 倭の統一をアピール)しますが。方策として、倭全体を統一された、大きな国と見せかけることで高句麗をけん制、抑止力にしたと推測します。更に、この結束が後の統一国家誕生につながったと考えます。
歴史は繰り返す観点からみますと、ここまでは外圧を受け結束していますから、卑弥呼女王を共立したときと同じです。次の問題は、卑弥呼女王に相応する、共立された王が誰かということです。その王は、当時の天皇(その頃は大王)で、第十代崇神天皇が相応すると思われます。
  ※以下、崇神天皇について考えてみます。
㋑  崇神天皇には三一八年没説があり、在任期間と高句麗南下の時期が合致します。
㋺  日本書紀の天皇に関する記述が、九代までは畿内の狭い範囲なのに対し十代の崇神天皇の時は四道将軍を北陸、東海、西道、丹波の四道へ派遣したと広範囲になっていて、それまでの地域政権が全国規模の政権になったといわれています。国々が結束し倭全体の統一王として崇神天皇を共立したことと符合します。
㋩  崇神天皇の称号が『御肇國天皇』(ハツクニシラス天皇)と、はじめて国を治めた天皇となっています。

日本書紀 崇神天皇の段にある『御肇國天皇』
上掲 日本書紀の現代語訳

㊁ 高句麗襲来の恐れから生まれた統一国家は、大きな国に見せかけるための偽装で、実効支配をともなうようなものではなかったと考えます。どの国も、戦って負けた訳ではありませんから、自国の権限を手放すとは思えません。誕生した統一国家は、言うなれば『見せかけの統一国家』であり、崇神天皇も卑弥呼女王や壱与女王と同じ、権限を持たない名目的な王であったと考えられます。
(まとめ) 日本の統一国家誕生は、四世紀はじめ、中国支配地域の楽浪郡、帯方郡を相次いで滅ぼした高句麗が倭にも攻め込んで来るのではないかと危機感を抱いたことから始まったと考察します。圧倒的な軍事力を持つ高句麗に、小さな国単位では抗する術もなく、国々は結束してこの事態に対処したと思います。そして、この結束が統一国家誕生の端緒になったと考えます。当初の統一国家は、大きな国と見せかけるのが目的の『見せかけの統一国家』で、統一国家の王に就任した崇神天皇の立場は各国を支配する権限を持たない名目的なものであったと推測されます。
《 高句麗南下と倭の統一 》    終わり

前回、古墳時代を解き明かす① 前方後円墳を推理する
自著『密策』(講談社エディトリアル)より


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