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皇軍の中将になった朝鮮人クリスチャン

洪思翊(こうしよく・ホンサイク)は、戦前において、朝鮮半島出身でクリスチャンという信仰を持った人物でありながら、帝国陸軍中将まで登りつめた人物。陸軍で高位に登った人物は李王家の人物だったことを考えると、極めて例外的な人物です。
洪思翊は1889年、ソウル近郊の極貧の家庭に生まれ、努力して体力、知力とも優秀な成績を修め、当時の日本の陸軍士官学校を優秀な成績で卒業し、軍人として、古今の戦史、戦術に深く通じるだけでなく、四書五経から英語にまで精通し、相撲や武道も強い人だったそうです。

洪中将は、新しい部隊に赴任すると、居並ぶ日本兵の前での初訓示で、毎回、次のように語ったそうです。
「自分は朝鮮人の洪思翊である。
 唯今より天皇陛下の御命令により指揮をとる。
 異義のあるものは申し出よ」
彼がまだ大尉だったころ、彼の息子の洪国善が、近所の悪童から「チョーセン、チョーセン」とからかわれたのだそうです。どこにでも悪童はいるものです。そのとき洪思翊は息子に、大英帝国に虐げられても誇りを失わないアイルランド人の例をひき、「どんなときでも必ず『私は朝鮮人の洪国善です』とはっきり言いなさい。決して『朝鮮人の』を略してはいけない」と諭したそうです。
引用:https://vpoint.jp/world/korea/218863.html

戦争が終わったそのとき,フィリピンの山中で洪思翊中将に,
「これで韓国は独立する,洪中将も帰国されて,活躍されることでしょう」
といった意味の祝いの言葉をのべた。
そのとき洪中将は威儀を正して
「自分はまだ制服を着ている,この制服を着ている限り,私はこの制服に忠誠でありたい。従って,これを着ている限り,そういうことは一切考えていない」と言われた。

1946年2月23日、洪思翊中将の上司であった山下奉文大将は、絞首刑となっった。山下大将のつぎのような言葉が残されている。
神の前で恥じることはない。しかし、あなた方が『おまえには日本軍を指揮する能力がない』というなら、何も言うことはない。丁寧な扱いに感謝する。私を処刑する人をとがめない。彼らに、神のご加護があるように。

1946年9月26日、洪思翊中将はフィリピンの捕虜収容所長時代に食糧不足から捕虜に十分食事を与えなかった責任を問われ、捕虜虐待の戦犯としてフィリピンで処刑された。
洪思翊は、軍人として弁解や証言することを潔しとせず、自らについては一切沈黙を守ったが、他の戦犯被告人を弁護するための証言は積極的に行った。アメリカ人弁護人が無罪を立証しようとして、「朝鮮人は長いこと抑圧されており、朝鮮人指揮官はいかに高位にあろうとも、日本軍においては事実上軽視されていた」との論陣を張っても耳を貸すことはなかった。

洪思翊中将はクリスチャンで、最後の日々はずっと聖書を読みふけっていた。死刑の直前には、キリスト教徒の日本兵片山氏に詩編の五十一篇を読んでもらった。処刑台に上がるときにぽつりと甲種合格ならぬ、「絞首合格だったよ」と冗談を近くにいた日本人に漏らしたという。
辞世は以下の通り
くよくよと思ってみても愚痴となり
敗戦罪とあきらむがよし
昔より冤死せしものあまたあり
われもまた これに加わらんのみ

「片山君、何も心配するな。私は何も悪いことはしなかった。死んだら真直ぐ神様のところへ行くよ。僕には自信がある。だから何も心配するな」
と逆に片山氏を励ました。時間が来てMPが近づくと落ち着いて立ち上がり、「片山君、君は若いのだから、身体を大事にしなさいよ。そして元気で郷里に帰りなさい」と別離の言葉を送った。

遺品の洪思翊の署名入りの聖書が、数奇な運命を経て実の息子に返還されたというエピソードにも、胸打たれるものがあった。
参照:http://history365days.blog.fc2.com/blog-entry-664.html

ところで日本には戦犯はいないことを知っておられますか。

洪思翊中将のような立派な方も朝鮮においては「親日派の巨魁」「民族の裏切り者」「反逆者」と罵られ、先妻の長男洪国善氏は早稲田大学卒業後、朝鮮銀行に勤めていましたが、李承晩大統領の直接命令によりやめさせられ、未亡人(後妻)の李清栄さんはお茶の水女子大の前身である東京女高師の文学科卒業であるに関わらず、一切の職業から閉め出されてしまい、韓国にすむことができずに、無一文で日本にやってきました。
 それに対して、日本の政財界の人たちは、手をさしのべたそうです。
来日する直接の動機は、日本文化連合会の小見山登氏らが昭和43年12月8日、京都市東山霊山観音廟の境内に「韓国人犠牲者慰霊塔」を建設し、その除幕式に招いたからでした。この慰霊塔には、日本軍人・軍属として処刑された23柱を中心に、日韓併合から敗戦までの犠牲者が祀られています。
 その除幕式には、洪思翊中将の遺族(未亡人と長男)をはじめ10名の遺族代表が招かれました。その慰霊塔除幕式の模様はNHKで全国放映されたそうです。
帰国に当たって三菱電気の前社長・関義長氏と久保田鉄工会長(当時)小田原大造氏が全員にテレビ一台と農機具一式を贈りました。遺族たちは全員感激のあまり頬をぬらしたそうです。洪思翊中将の遺族は日本に留まり、その年の12月26日、小野田セメントの安藤豊禄氏の世話で、当時の佐藤栄作首相に会いました。

佐藤栄作首相は、昭和12年鉄道監察官として、上海から南京までの華中鉄道の建設に当たっていた。その時に興亜院調査官として華中連絡部(上海)にいた洪思翊中将には、公的に世話になったという因縁がありました。
 佐藤首相は遺族の未亡人と長男に会うと同情し、
「大陸時代の洪氏への誼み にこたえる唄別として些少だが受け取っていただきたい」
として、自分の私財 百万円を贈与したという。
 佐藤首相は当時現職であり、おおぴらに支援できなかったという。
 遺族はその後、安藤氏や小見山氏の世話で六年間、日本に留まったが、五十年三月、未亡人は次男の顕善氏の留学先であるロスアンゼルスへ旅立ったという。
 その年の5月、築地の料亭・喜楽で佐藤氏を囲む会が開かたおり、知人の安藤氏から遺族の近況を聞いた。知人曰く「遺族は総理からいただいた百万円は定期預金にしておいたので数十万の利息がつき、そのお金をもって未亡人は無事渡米し、次男宅 に落ちついた」と、報告をした。
 すると佐藤首相は「安藤さんありがとう、気にかかりながらも立場上、充分なこと ができず、申し訳なかった。これで私も忘恩の徒にならずにすんだ」と人情味溢れる言葉で述懐したという。
引用:https://www.tamanegiya.com/kako/kousyoubunn.html



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