高橋ヨーカイ

高橋ヨーカイ氏が死んだ。

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https://natalie.mu/music/news/444851
ベーシストの高橋ヨーカイが9月2日、誤嚥性肺炎で亡くなった。69歳だった。

高橋は1979年に音楽活動を開始し、これまで吉野大作&プロスティテュート、裸のラリーズ、ギャーテーズ、分裂などさまざまなバンドのベーシストやセッションミュージシャンとして活躍。晩年は自身の出身地である北海道にて生活していた。彼の死去は2002年にソロアルバム「湧風洞」をリリースしたレーベル・いぬん堂のFacebook公式アカウントにて発表された。
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ヨーカイさんと知り合ったのは確か1998年か1997年である。

当時、唐組にいたんだけども友達もいないから寂しくて高円寺の某カフェに出入りしていた。
そこに居たのが高橋ヨーカイ氏だった。
ヨーカイさんも常連だったが、ちょっと目つきがオカシカッた。

だが、私は当時、唐組と言う目付きがオカシイ劇団にいたので特に変な印象は受けなくてミュージシャンで、ベーシストだ、と言う事しか知らなかった。
だが、まぁ常連同士、時折は話しをするって言う程度。

話をする感じとしては「こりゃ、面倒臭い人だ」と思った。

私は18歳でアングラ演劇を始めてしまい、その後もインプロヴィゼイションや何を血迷ったか暗黒舞踏にまで手を出し、そしてテント芝居と言うクソみたいにアングラな青年だった。
そのため「面倒臭いオッサン」に囲まれる事になり、慣れっこになっていた。

その歴代の『面倒臭いオッサン』達で、堂々と2位に入るのが高橋ヨーカイだった。
一位は唐十郎。

時折、音楽理論なんて知りませーん(笑)みたいなクソガキの私に12音技法やモード奏法について話すのだが、思えば観念的な話しばかりで理解が出来なかった。
まぁ、モード奏法自体が観念的な技法なので仕方がないんだけども、12音技法に関しては明らかに間違っていたけども。
恐らくヨーカイ氏の中で12音技法もモード奏法もゴチャゴチャになっていたんだろうけども。

私と知り合った頃、既に離婚していて「寂しい、寂しい」と言う状態だった。
離婚した理由は分からないし、本人も語りたがらなかったので分からないんだけども、離婚したカップルって「離婚するに値する理由」があり、双方の合意で行われるモノだけども、40代過ぎで離婚した男性は鬱病になる率が高いんだよな。

思えば、あの頃のヨーカイさんは鬱状態だったし、クスリの量も増えていたんだろうけども。
婚姻中はクスリとは無関係な良いパパだったらしいのだが、その頃のヨーカイ氏を私は知らない。

某カフェのマスターとは某宗教系の集まりで知り合い、ヨーカイ氏が「離婚して辛い」と泣いているのを見て、見かねて「じゃあ、うちのカフェにでも遊びに来てくださいよ」と行ったら来始めた。

幸い高円寺と言う街は

「寂しい」
「面倒臭い」

と言う人を放っておかない街だった。
だから、ヨーカイさんは某カフェでは人気者と言うか常連客として迎えられて、カフェにいる間は寂しさからは逃れる事が出来た。
時折、気が乗るとベースを持ってきて弾いたりしていた。
ヨーカイさんの「寂しい」と言う話を皆、とくに何も言わずに聴いていたりしていた。

私が古いロックの話しばかりするので(渋谷系世代)、何故かヨーカイ氏は「古いロックは聴くのに、何故、俺の音楽を聴かないんだ」と意味不明な事を言い始めた。
彼が『ギャーテーズ』や『裸のラリーズ』『分裂症候群』だった事を知らなかったし、上京したばかりのアングラ青年にとって東京の中古レコード屋は魅力的だった。

北九州市と言うクソ田舎育ちなので「好きなミュージシャンのライブを観る」と言うのは立地的に不可能だった。
著名なミュージシャンは北九州市なんかに来なかった。
来たとしても福岡市までで、北九州市と福岡市は120km離れており、交通の便として無理があった。

だから、必然的にライブを観る、と言うよりも音源を集める事になる。
むしろ、ライブを観るよりも音源の方に魅力を感じ始める。
ライブが観れない分を想像力で補う、と言う感じである。

だから、当時は『Soft Machine』や『四人囃子』『ジャーマン・ロック』と言った癖のあるプログレに夢中だった。
「そんな古い音楽じゃなくて俺の音楽を聴け!」
って言われても困るんだけども。

ヨーカイ氏はギャーテーズについて話す事も少なかったし、ラリーズについて語る事も少なかった。

そんな頃、その某カフェで『朝吹真秀』と言う舞踏家が引退公演を行う。
音楽を高橋ヨーカイが担当する、と言うので行ってみた。
その朝吹真秀さんは舞踏を途中で止めてしまい、時間が余った。

それでヨーカイ氏が「じゃあ、Amazing Graceを演奏します」と言ってベース一本でファズとディレイを効かせた状態でAmazing Graceを演奏し始めた。

その時は物凄かった。

あのヨレヨレで、洋服も着た切り雀で、淋しがり屋で面倒臭いオッサンである高橋ヨーカイが、立派な騎士のように立ち、アンプからは天使の歌声が聴こえた。

信じられなかった。
会場にいる皆がツバをゴクリと飲み込む程の美と調性が聴こえた。

あの日、あの時のヨーカイ氏ほどカッコいいモノはない。
今でも、あの日の、あの時のヨーカイ氏ほど美しいモノを私は聴いたことがない。

大音量だったワケではない。
某カフェは防音じゃなかったので普通の音量だったのだが、九州地方の夏の落雷よりも大音量に聴こえた。

その時に「東京ってのは、こんな凄い人がウロウロしている街なのか」と愕然とした。
それと同時に「こんな凄い街に来てしまったのか」と興奮した。
「こんな音を出したい」
と思った。

まだ、唐組だったか、退団していたのか分からないが「あんな風になりたい」と思った。
20歳の青年に、そう思わせる程、ヨーカイ氏のAmazing Graceは美しかった。

その後、某カフェのマスターとヨーカイ氏は、対して良くもない舞踏家女性を巡って喧嘩に発展して、ヨーカイ氏は出入り禁止になった。
中年男性2人が、中年女性を巡って罵り合う、と言う『高円寺地獄変』は「あんな風にはなりたくない」と思ったが。

とは言え、その頃のヨーカイ氏は寂しければ店に来れば良かったし、店に来て機嫌が良くなればベースを弾いて安定していたようにも思える。

ある時、裸のラリーズのビデオを持ってきて店で見せてくれた。

「え?!裸のラリーズ???何でヨーカイさんがラリーズのビデオを??」
「俺、居たからだよ」
「ええええええ!!!」

と言ったら嬉しそうにラリーズについて解説してくれた。
そう言う時のヨーカイ氏は機嫌が良かった。

店にいる時のヨーカイ氏は寂しさで鬱々していて、暫くしていたら機嫌が良くなって・・・って言う繰り返しだった。
クスリも使っていたんだろうけども、量は安定していたんじゃないだろうか。
当事者じゃないから分からないけども。

思えば変な人だった。
仕事を日替わりのように変える私に対して
「仕事も出来ない奴に音楽が出来るのか!」
と叱咤したり、
「バンド内での恋愛はミュージシャンたるもの禁止だ!」
と豪語したと思えば、参加していたバンドのボーカル女性に恋をして、女性の家の前で待ち伏せして愛の告白をして、フラレて、泣きながら某カフェに来て
「クソー!家の前で待ち伏せまでしたんだぜ?!俺にそこまでさせて、駄目って何だよ!」
と言って、周囲に慰められたり。
過去にはギャー●ーズに当時、参加していた女性舞踏家に恋をしたのだが、アルト・サックス担当者に横取りされて(しかも、その女性舞踏家は結婚していた)、意味不明な難癖をつけてサックス奏者を殴って脱退させたりしていた。

基本的には真面目な人だった。
だから、前日にライブがあり打ち上げが朝まであったとしても仕事に行く、と言う人だった。
日々の練習も怠らない人で、週5でスタジオで個人練習をして、家でも練習をして、彼なりの解釈の音楽理論を追求していた。
その真面目さが仇となったのかクスリの方も真面目に接種していた。
ただ、ヨーカイ氏は私が思うにクスリとは体質的に合わない人だったと思う。
使うクスリによっては楽しくなったりするものだが、彼は白い奴と、草と、アルコールって言う感じで、常にバット・トリップだった。
氏が寂しかったり、辛かったりしていたのは、その影響もあったのではないか?と思う。
だが、生真面目な人だったので「ミュージシャンとは『かく有るべき』」と言うモノが明確にあり、それは人格や生活、人間関係が破綻したとしても『かく有るべき』だった。

最後に会ったのは高円寺『喫茶プログレ』と言う店だった。
その頃にはヨーカイ氏は幾つもの店で出入り禁止を食らっていて、まだ新しい店だった喫茶プログレは朝までやっていたし、寂しかったから来たんだと思う。

その頃には既に薬物の影響が露骨に出てきていた。
常に鬱屈していたし、何を話しているのか不明瞭な事も多くなっていた。

その頃に『いぬん堂』からCDをリリースしていた。
それを店のマスターに「かけてくれ」と言ってスピーカーから出していた。
見た目に迫力がある人・・・そりゃ、夜中でもサングラスでチリチリの長髪、着た切り雀な風体なんだから『嫌な迫力』は出るモンだが・・・なので、マスターは良い気はしなかったと思うが流していた。
私にCDについての解説をし始めた。

「・・・此処はジャコ・パスを越えようと思ったんだ。ジャコ・パスより早く弾こうと思ってな」
「この辺は歌詞は意味はないだ」
「CDのタイトルの読み方?そんなモノはない。この文字自体の読み方は・・・ない。好きに呼べば良い」
「これからは世間に打って出る・・・」

そう言う時のヨーカイ氏は少しだけ機嫌が良さそうだったが、やがてドラックが彼の人格を上回り始めた。


その5〜6年前に私はジャンキー女性と2年半の同棲をして、別れていた。
私自身はケミカル系ドラックの経験はないのだが、その女性は『そう言う人』だった。
まだ、20歳のアホなので付き合ったが、わずか2年半が10年のように感じる程、激しい生活だった。
その女性は私と別れて(他の男性とくっついて)さらなるジャンキー道を突っ走った。

喫茶プログレに来ていた頃・・・と言うか私と、その女性とヨーカイ氏は某カフェで知り合っていたので共通の人だった。

で、ジャンキーの99.99%がそうであるように、そのジャンキー女と、ヨーカイ氏はジャンキーって事で交際し始めた。
馴れ初めは、まぁアレである。

5〜6年前とは言え交際していた私の事が気に入らなくなってきたらしく、ある日、私にブツブツと文句を言い始めた。
それが数日、続いた。

「お前が俺の悪口を言っているのが外でも家でも、アチコチから聴こえてくるんだよ!」
「外でも家でも、壁からもお前が悪口を言っているのが聴こえてくるんだよ!俺の悪口を吹聴していだろ!」

その日、私は何故か機嫌が悪かった。

延々と2時間半、絡まれて、私は若かったので殴った。
で、帰宅したら警察から「高橋さんって人を殴っただろ?!」と電話が来た。
「コイツ、反権力とか言いながらも、こう言う時は警察に行くのかよ!」
と思った。一瞬、彼の習慣についてチクろうかな、と思った。
だが、それはミュージシャンの仁義してはタブーだから黙った。
思えば、あの時、チクってしまえば良かったなとは思う。
その数カ月後、ヨーカイ氏はラリって仕事に行って脚立から落ちて半身不随になるから。

とある人が「山口富士夫はズルい」と言っていた。
「山口富士夫はクスリで散々、人に迷惑を掛けまくって、それで死にそうになったら捕まってクリーンな状態になって、それでまたクスリで迷惑をかけるワケじゃん。その繰り返しじゃん。そんなの、ズルいよ」

ヨーカイ氏の人格の変化にウンザリしながらも、私はヨーカイ氏のファンであった。
CDは当時、ホンっとに銭がなくて買えなかったから、喫茶プログレで聴くだけだったんだけども、当時は良い音に聴こえた。

それがヨーカイ氏との最後の会話だった。

一時期は「分裂症候群を再結成するからお前はトランペットで入れ」と言ってくれた。
「ギャーテーズに加入しろ」
と誘ってくれた。
だが、断った。
私のトランペットの腕前はまだ下手だったし、基礎練習だけでヒイヒイと言っていた頃だったからギャーテーズのメンバーの『ミュージシャンとしてのタフさ』にはついて行けない、と思ったし、ヨーカイ氏の『分裂症候群』も「俺はヨーカイ氏には体力的にもテクニック的にもついて行けない」と思ったから断った。
まぁ、ギャーテーズのリーダーはヨーカイ氏ではなかったから、何処まで本気だったのか分からないし、分裂症候群に関しては再結成はしなかったけども。


69歳で死亡か。
死因から晩年はボロボロだった事が分かる。
だが、80年代から00年代にかけて最悪と言っていい程、破滅的な生き方を選んだ割には大往生と言っても良い年齢である。

だが、何だかモヤモヤとする。
98年のある日のヨーカイ氏は、天から降りてきたのかと思うほど素晴らしい演奏をしていた。
その後も比類なき演奏をしていたし、ベースの奏法もヨーカイ流と言って良いほど特殊な奏法をしていた。
あんな凄いベーシスト・・・ソリストは居なかった。
だが、ヨーカイ氏は1000ものスキルを持ちながらも、与えられたチャンスや機会は0.5にも満たなかったと思う。

本来ならば、1000あって、100くらいは返ってくるのが音楽ってモンだが、それら全てをヨーカイ氏はドラックで失っていた。
ってか、失っている事にすら気がついていなかった。
高円寺から出ようともしなかったし、半身不随で札幌に移住するまで少数のお客さんを相手に、高円寺ペンギンハウスでしか演奏していなかった。
じゃあ、もしも私がその後も接点があって西麻布や六本木の店でライブでヨーカイ氏にオファー出来るか?って言えば無理だったと思う。
実際、ヨーカイ氏にベースをお願いした人は結構、大変な目にあっていたし、バックレるって事もあったから。

その後。

10年か15年か経過した頃に御茶ノ水ジャニスに高橋ヨーカイ氏のCDがあったので借りた。
CDデッキに入れて再生を押して数分後には深い溜め息と落胆が私を襲った。

ヨーカイ氏は「ミュージシャンは『かく有るべき』」と言う事でCDを作る際に宅録みたいなモンだったと思うが、クスリの量を増やした。
その頃から、ヨーカイ氏から皆が離れ始めたし、その頃は上記の私のように意味不明な難癖を付けては高円寺の至る処で殴られていた。
必死に働き、クスリを使いまくって(それが人格破綻や人間関係の破綻に繋がろうと)、必死に音源を作って、レーベルのオーナーを脅す感じでリリースした。

「そこまでやって、この程度だったのか・・・」

と思う。

作品って最低でも10年の耐久性能が求められると思う。
10年後に聴いても良い作品こそが『作品』なのだと思う。
ヨーカイ氏のCDは10年と言う時間を生きれなかった、と私は思う。

今、聴いているのだが「やっぱ、ダセェな」としか思えないもんな。

音楽はクリーンでなくては、とは言わない。
だが、ヨーカイ氏は作品の底が浅い作品を「作品だ」にしてしまった。

例えば死んじゃった金子寿徳氏は意外と作品は残っているし、ブートすら大量にある。
そして質も高い。

ヨーカイ氏は質の悪い作品しか残せずに消えてしまった。
90年代後半に某カフェで弾いていたようなベースを録音すれば、それだけで作品となったのに、彼はそうしなかった。
『かく有るべき』
に拘り続け、途方もない駄作が遺作となった。

どうも、寂しい。

『才能』と言うモノはギフトであり、それは公衆の知性の為に使われるべきである、と言うのが『才能』と言うモノの定義らしい。

ヨーカイ氏はギフトを持っていた。
だが、それを氏が好んでいた観念的な『かく有るべき』により、全てオジャンにしてしまった。

・・・って、俺はムカついているのか?。
多分、ムカついている。

あれだけ素晴らしい演奏をしておきながらドラックなんぞで全てをゴミ箱に突っ込み、駄作が遺作となったって言うのは正直、ムカつく。

訃報を知って色々と考えたのだけども、98年の、ある日のヨーカイ氏の音。
「あの音を出したい」
と思った。

その音は今の私の音に確かに存在する。

随分と時間がかかったがヨーカイ氏の音は私のエレクトリック・トランペットの中に確実に存在する。
何しろ最初にコピーしたのはヨーカイ氏の曲だったくらいだから、俺は何処か、彼の事が好きだったんだろう。
憧れ、と言うか。

ヨーカイ氏の音はCDには収録されていない。
あのCDは彼の悪癖が生み出した駄作でしか無い。

彼のmemeは俺の中にあるんだな、と思った。

だから、俺はヨーカイ氏が悪癖により何もかもをオジャンにした事に関してもムカついているし、死んだ事に関してもムカついている。

このムカつきは、どうすれば良いのか。

クソ!。

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