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【ジャーナル】こうちアントレプレナーナイト 連続セミナー #10 独自のコンセプトを確立したカフェ経営と地域活性化


「こうちアントレプレナーナイト」は、高知県内で活躍する先輩起業家を招き、起業までの道のりや苦労話、起業するにあたっての心得など、実体験をもとに紹介してもらう、対話形式のセミナーです。
また、参加者が考えているアイデアがある場合は発表し、ゲストと参加者が一緒に、そのアイデアを磨き上げる参加型のプログラムとしても機能させていきます。


第10回目の講師は、白鳥恵利子さん(Cafe Ayam 代表)。
『独自のコンセプトを確立したカフェ経営と地域活性化』と題して、カフェの経営に至った白鳥さんのこれまでと、拠点となっている龍河洞への想い、今後の展望などを聞かせていただきました。

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白鳥恵利子さん(Cafe Ayam 代表)

1978年、青森県青森市生まれ。大学進学で東京へ。卒業後、映画配給会社、宣伝会社など様々な業種を経験。2011年、東日本大震災の際、オフィスのある28階で経験したことのない揺れを体験し、自然災害時の都会の脆さを実感。夫婦で生きる場所について真剣に考え始める。2014年4月、夫の故郷である高知市へ移住。
2016年5月、ニワトリカフェ「Cafe Ayam」(カフェアヤム)をオープン。
2018年6月、香美市へ2段階移住。
カフェのある龍河洞の活性により深く関わりたいとの思いから、2018年11月より、龍河洞のマーケティング・運営企画をする株式会社龍河洞みらいのメンバーとしても活動中。
株式会社龍河洞みらい マーケティングユニット セールスマネージャー 兼 広報担当、龍河洞エリア活性化協議会 副会長。

私を表すキーワード

青森県出身、5年前に高知県にIターンした白鳥さんは「中村さんの奥さんって言われるのが苦手なので、旧姓で仕事をしています」と、はにかみながら自己紹介を始めました。
大学卒業後東京12年間働き、2014年に旦那さんと一緒に高知へ。独立前にデジタルマーケティングの会社に勤め、2016年に『Cafe Ayam(カフェ アヤム)』を開業して今に至ります。

好きなことは山登り、キャンプ、いのしし猟、コーヒー、食べること、アジアなど様々。今、はまっているのがインドネシアで、先日9年ぶりにインドネシアに行き、刺激を受けたそう。バリ島のウブドという地域が好きで、一度ちょっと暮らしてみたい、という気持ちも持っている、と笑います。

自分のことを表すキーワードとして挙げられたのは3つ。「飽きっぽい」「休まないと頑張れない」「楽しむことには全力投球!」。
白鳥さんの周りにいる起業した方たちは、何年もかけて計画をして、考えを変えずにひとつのことに向かっている方が多いのですが、自分はタイプが異なる、と言います。
飽きっぽいので、どんどん違うことを試したり、休みなしで働くとダメになるのが分かっているので、休みたいと思ったら休んだり。
暮らしている中で「自分が楽しくないと、周りを楽しくできない」ということを実感し、全力投球で楽しむようにしています。
そうすると、人が集まってきて助けてくれたり、力になってくれたり、という経験をしているからです。
自己紹介の後は、事業の計画についての話題になりました。

定年のない仕事をしたい

遡ること12年。高知に移住してくるにあたって、前提となる動きは始まっていました。元々虫嫌いで自然に興味が無かったインドアな白鳥さんでしたが、旦那さんに連れ出してもらい、休日にアウトドアに出かけてキャンプをし始めるように。その頃からだんだんアウトドアが好きになり、登山は旦那さん以上にハマりました。
こうした生活を続けていく中で、東京で50歳、60歳まで管理職になって働く、というイメージがわかず「このままここにいるのは多分、違う」と、漠然とした違和感を抱くようになりました。

一番の問題だったのは、仕事。
地方のことを調べれば調べるほど、地方の企業で勤めるよりも、定年の無い生活基盤を作っていきたい、と思いました。
そして、どうせやるなら好きなことをしよう、好きなことなら失敗しても大丈夫かな、という想いも持つようになります。
偶然、高知出身の旦那さんが、有楽町の本屋で出会った『幻の鶏 土佐ジロー20歳』。旦那さんも白鳥さんも、そのとき初めて土佐ジローのことを知りました。まだ販路もブランドも確立されていない、この鶏を仕事にするのは面白い、と話し始めたのがこの頃のことでした。

大きな転機になったのは8年前の東日本大震災。
一番驚いたのは、都市機能の脆さです。インフラが使えなくなることで、何も出来なくなることを痛感しました。
この震災がきっかけで、旦那さんが中心になり、色々と調査を始めた中、高知新聞の連載が目に留まります。
書いていたのは、12年前に有楽町で見つけた本の著者でした。

高知県に完全移住

そこに書かれた連載の内容に衝撃を受けました。
高知県には『日本鶏』という観賞用の鶏の文化が根強くありますが、そのことを知っている高知県人はほとんどいません。その誇れる文化が無くなろうとしていることに、旦那さんは寂しさ、切なさ、情けなさを感じ、白鳥さん自身も同じように「こんな素晴らしい文化が無くなるのはもったいない」と思いました。

土佐ジローという鶏のブランドがあること、自分たちも定年のない仕事をしていきたいと思っていること、これらを組み合わせて、高知で養鶏をしながら鶏文化を利用したビジネスが出来るのではないか、と考えました。
養鶏は旦那さんに任せ、白鳥さんはペット用の鶏『プチコッコ』という品種に目を付けます。
検討課題として、何を生産するのか?どこに養鶏場を作るのか?販売戦略はどうするのか?といった基本的なことが挙がってきます。
旦那さんも高知を離れて久しかったため、頼る人もおらずゼロからのスタート。事業構想を膨らまし組み立てていき、観光養鶏や畜産養鶏を中心に企画書を何度も作り直していきました。

その後、2014年に高知県に完全移住。
旦那さんが農業研修を受けている間、白鳥さんは東京が本社の高知市の会社に転職します。2年後に独立を希望していることを告げ、デジタルマーケティングを学びました。いまだにこのときの人脈が役立っている、と当時を振り返りました。

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龍河洞と巡り合う

過去に起業したことのある旦那さんに、色々教えてもらいながらではあったものの、白鳥さんにとっては初めての起業。
簡単にはいかないことばかりでした。養鶏場は用地確保が困難であるうえに、動物を飼うとなると鳴き声や臭いの問題もあります。
次に、当初の計画で予定していた廃校活用もそのハードルの高さに驚きました。自分たちのやりたいことだけでなく、住民や場所の想いを引き継ぎながら、根気よく交渉することが求められるため、スピード感を重視し諦めました。

1年経ち、廃校以外の場所を探し始めたとき、ようやく龍河洞に出会いました。日本鶏の文化を知ったとき、高知県日本鶏保存会という団体と付き合いができ、その団体の人が龍河洞にある珍しい鶏を集めた『珍鳥センター』という施設を教えてくれました。そんな場所で鶏のカフェをしたら繋がりすぎておもしろい、と構想は膨らみます。
「龍河洞しかない。自分たちのビジネスは、龍河洞でやるためにあるようなものでは」と思うほどでした。そこから龍河洞にフォーカスするようになりました。

「復活!鶏王国」という新たな企画書は、龍河洞の運営をしている保存会に提案するものでした。
高知は町にオナガドリのオブジェがあり、バスにもオナガドリが描かれていて、本来なら鶏文化を大事にしているはずなのに、そのことに多くの人が気づいていません。
鶏文化の損失、鶏に触れる機会の減少など課題がある中で、価値を再認識してもらうような高知のプロモーションが出来るのでは、と色々企画しました。

日本初の鶏カフェをオープン

場所を龍河洞に決めたことで、カフェのイメージが明確化し、珍鳥センターのリニューアルなど具体性が増してきました。このとき、前例がないことをやるときには、慎重にしよう、と鶏の肉を提供しないことを決めました。
事業計画書を作り、養鶏所の候補地を探しました。周りの賛同を得て快く始めたい、と場所を検討しているところ、土佐市のある場所を貸してもらえることに。土地の開墾や整地などは旦那さんが、カフェは白鳥さんが担当し、計画を進めていきました。
カフェのコンセプトは、おむつを穿いたペット用の鶏『プチコッコ』との触れ合いが楽しめて、高知のブランド地鶏・土佐ジローの卵を使った料理やスイーツが楽しめるお店。
実は、白鳥さんたちには飲食店の経営の経験はなく、料理も趣味程度。カフェをやろうと思った理由は「卵の売り先が欲しかった」から。
触れ合いがプラスされた、日本初の鶏カフェは「絶対にいける」、そう思ったと当時の心境を語ります。

オープン後、白鳥さんのお店『Cafe Ayam』は、龍河洞に20年ぶりに出店したお店として地元、全国問わず様々なメディアに取り上げられました。カフェに来たお客さんの中には、プチコッコとの触れ合いを怖がる人もいましたが、触った瞬間に癒され、顔が変わる様子を見て毎回、感動を覚えるほどでした。
鶏のかわいさをお客さんに知ってもらい、自分が楽しいことだからこそ心から勧められたり、そういうことを、カフェをやってみて気づいた、と話します。

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