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混乱の時代を生きる

車椅子の旦那と5歳の息子と暮らす主婦、こぶたですどうも~。


社会性を持つ生き物


人は人の手を借りないと生きられない


ということを自認しているかどうかで
生きやすさは格段に変わる。

諦念は時に、人に余裕を与えてくれる。
ある人はそれを割り切りだと言う。

自分の限界を知っている人は強いと聞いたことがある。

私たちは社会性を持ち、互いの能力の凸凹を補い合い助け合う生物。



そう感じたのはコロナ禍での
知人との些細な言い争いだった。

私たち夫婦は何かあった時、より生きづらさが増す。それどころか生命の危機が近づくことを経験的に知っている。


障害とは、環境によるリスクを強く濃くする側面を持っている。

障害は環境と本人の持つ能力との齟齬だから。
環境が変われば私たちは窮地に立つのは当然の流れだと言える。


「当り前」は当たり前ではないということ


ある程度、経験の中から
覚悟や想定を常日頃から少なからず備えているのだが

このコロナ禍で突然に生活が変化した知人は
驚く程にカリカリと攻撃的になり
ストレスに晒されていると感じた。

人は外からの力で不本意に変えられることに弱い。
自分の力ではどうにもならない変化を嫌う。

「当たり前の生活」はある日突然消え去るもので
失って初めて気づくもの。

言葉でわかっているようでも
人は体験しないと気づかない。

それは楽観バイアスがかかっての事なのだろうか。



だが残念なことに、今ある生活は不変のものではない。

それは私たちにも同じことで、私たちが未だ経験したことの無い抉れは
この世にいくらでも存在していて
いつ想定外に叩き落とされるかはわからない。



生きていると色々な落とし穴がある。
歩けなくなるという穴もあれば、自殺未遂という穴もある
毒親という穴や、失職という穴、家族を失う穴、不妊、不登校、引きこもり、色んな穴がある。

ひとつも穴に落ちたことの無い人もいれば
その多くに落ちた人もいる

ひとつに落ちたから、他に落ちないという保証はない。

神様というものが存在するとしたら
相当神は意地が悪い。


ただ、落ちた穴が多ければ
それだけ気をつけようと学習する。


最初に穴に落ちたからといって、また落ちるとも限らない。


穴に落ちたくらいではへこたれない人もいる。
「へへ、落ちちゃった」と笑いとばす人もいれば
それを引きずる人も、いる。

同じ穴に落ちて無傷な人もいれば、
打撲する人、骨折する人、亡くなる人さえもいる。

落ちるうちに避け方も、受身の取り方も
なんとなくこの辺は危険だということにも気づきやすくなる。



だからこそ、幼いうちに
たくさんの穴に落ちるべきなんだろう。

周りの誰かが、大丈夫?と覗き込んで手を差し伸べてくれるうちに。

まだ体が柔らかく、落ちても軽傷で済むうちに。



私にも知人にも
覗き込んで手を差し伸べてくれる人が少なかった。

だから穴を踏まぬようにビクビク生きてきた。

それでも私はドン臭く、たくさんの穴に落ちてしまった。
落ちるうちになんとなく学んだのかもしれない。
安全な痛くない落ち方を。

要領いい知人は、ここまでつまづく事はあっても
あまり落ちることなく生きてきた。

痛くない落ち方を知らず、ドサッといきなり突き落とされたのだろう。
このコロナ禍に。

「お前より自分の方が大変!!」

突き落としたのは私ではないけれど
その怒りはある時、私に向いた。

私は背中を押してない。
穴の上から覗き込んで、大丈夫?と呼びかけただけ。

私が落ちなかったことが気に食わなかったか、
落ちた自分に腹が立ったか。

ただそれだけの
ことなんだろう。

コロナ禍は色んなものを浮き彫りにする。


混乱の性質

人は簡単にある日突然日常を失う。
今回はそれがたまたま全世界だっただけ。

言うなれば、大規模な地盤崩落。

だから皆、混乱している。

だけどこれだけは言える。

その混乱が一時的か、永続的か
それをよく見極めるべきじゃないかなってこと。


自分に非のない不利益によって起こるフラストレーションを
誰かにぶつけたくなる今だけれど
あなたの投げつけた棘は確実に無関係の誰かを傷つけ、肉を抉る。

誰かが悪いのか
誰も悪くないのか

憎む対象がある方が
感情の行き場が定まりやすく
それが無ければ更なる、混乱に陥る不安定な生き物だな。
私も含め、人は。



そう思いながら、クラフトを愉しむ自宅待機中の旦那の横で
同じく登園自粛中の息子の双六に付き合っていた、
いつかの自粛下の主婦の戯言。

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