剣舞吟題考察
令和六年度全国剣詩舞コンクール、剣舞指定吟題の理解の為に記す。以前にも行ったが今回も手元の資料、財団の漢詩集や月刊誌なども参考にして自分なりに簡潔にまとめてみたい。
幼年の部・少年の部
① 客舎の壁に題す / 雲井龍雄
斯の志を成さんと欲して豈躬を思わんや
骨を埋む 青山碧海の中
酔うて宝刀を撫し 還冷笑す
決然馬を躍らして関東に向こう
訳「この志を成そうと思うならば、どうしてわが身の事など考えられようか。わが骨を埋めるのは山でも海でも構わない。酒を飲みながら刀を撫で、静かに思いを含み笑う。覚悟を決め、馬を駆けさせて関東(江戸)に向かおう」
米沢藩士として生まれ、本名は小島守善。雲井龍雄は変名。若き日より学問に秀で幕末時には志士として活躍する。幕府には否定的ではあったが新政府発足の経緯と特に政治的に策謀の強い薩摩を憎み、戊辰戦争に対しては奥羽越列藩同盟を助け戦う。敗戦後、禁固・謹慎を経て新政府に出仕するが、批判的な態度や舌鋒鋭く議論を戦わせる事が災いして追われた。
その後、没落した士族や旧幕府方、敗残の人々を救うために奔走するが、新政府に煙たがられ、また政権転覆を図る集団とも疑われ(実際その色が強かった)、謹慎幽閉される。罪状不確かながらもついに斬首刑に処された。
激情家であり議論鋭く、藩の上役にも遠慮なく諫言する、まさに幕末の志士のイメージ。
② 鞍馬の牛若 / 松口月城
恩讐脈脈 心肝に徹す
鞍馬山の牛若丸
経文を読まず 韜略を読む
練磨の一剣 天に倚って寒し
訳「鞍馬山に預けられて修行する牛若丸は、これまでの様々な出来事(父母や自分自身など)が心に深くわだかまり、平家打倒の思い決するものがあった。したがって彼は僧侶としてお経の勉強をするよりも、中国の兵法書を読んだ。武芸に励み、鍛え上げられた剣技からは冷気が感じられるほどであった」
作者・松口月城(明治~昭和)。医師として地域の医療に尽くし、また漢詩、書道、南画など多彩な才能を発揮。特に吟詠漢詩家として生涯で一万数千首にも及ぶ漢詩を作り、多くの人々の心に感銘を与えました。
牛若丸(源義経の幼名)は、源義朝を父に常盤を母として誕生したが、父は翌年「平治の乱」で平清盛に敗れ、常盤は難を逃れて三人の子を連れ大和の里に隠れた。のち三児の今若(七歳)、乙若(五歳)、牛若(一歳)は母常盤と共に仇敵の平清盛に引き取られる。その後牛若は山科を経て七歳のときに鞍馬寺の東光坊阿闍梨(僧正坊)に預けられて学問や武芸に励んだ。十一歳のときに系図を見て、自分が清盛に討たれた源義朝の子であることを知り、思い立って中国の兵法書である「六韜(りくとう)」と「三略(さんりゃく)」を熱心に学び、鞍馬の天狗どもを相手に剣の技を鍛えて十六歳で山を下りた。
③ 大楠公 / 徳川景山
豹は死して皮を留む 豈偶然ならんや
湊川の遺跡 水天に連なる
人生限り有り 名は尽くる無し
楠氏の精忠 万古に伝う
訳「けものの豹でも死んで美しい皮を残す、まして人間が死んで美名をこの世に留めるのは偶然であろうか、いや決して偶然ではない。南朝の忠臣・楠木正成が戦死した湊川の遺跡に来てみれば、川の流れは天に連なっていて、その事を大いに感じられる。人の生涯には限りがあるが、立派な人の名前はこの川の流れのようにいつまでも尽きる事はない。楠公の純粋な忠義は万古に渡って私たちの心に伝えられるであろう」
作者・徳川景山。水戸藩九代藩主、名は斉昭。徳川十五代将軍慶喜の父。藩学・弘道館を起し文武を奨励、幕府の政策にも声を大きく意見した。(子の慶喜もからんだ将軍継承問題など)大老井伊直弼らと対立し隠居謹慎になり、長子慶篤に藩主にたてる。ペリー来航による幕府の重大な政局を迎え再び政治の舞台に参画するようになる。井伊直弼など幕府の外交姿勢を憤った朝廷が水戸に密勅を下すが、ことが漏れて斉昭は居城に禁固される。このことが後に水戸浪士の桜田門外の襲撃に繋がっていく。
水戸藩二代藩主・徳川光圀から始まる「水戸学」を奨励し、斉昭(景山)のときに尊王攘夷へ発展、明治維新の思想的原動力になったといわれている。水戸藩は幕府方であっても勤王のイメージがあり、楠公精神にも強い結びつきが感じられる。その光圀が現在の湊川神社の地に佐々木宗淳(助さん)を遣わして墓碑を建立。「嗚呼忠臣楠子之墓」の八字は光圀公自身の筆によります。湊川神社HPより。
青年の部・一般の部
④ 奥羽道中 / 榎本武揚
鮮血 痕を留む 旧戦袍
壮図一躓して 気何ぞ豪なる
松陰 涼は動く 羽州の路
白雪天に懸って 鳥海高し
訳「(囚われの身となった今)すでに過去のものとなった軍服には赤い鮮血の痕が残っている。蝦夷(北海道)の地で共和国を樹立する壮大な計画も残念ながら挫折したが、私の心は少しも挫けず、意気はなお盛んである。護送される奥羽の路、松の木陰では涼しい風が吹いている。ふと見上げれば、頂上の白雪が天に懸かるかのような鳥海山が高く聳えたっている」
作者・榎本武揚。江戸時代末期の武士、幕臣。幕府海軍の指揮官を務める。戊辰戦争以降旧幕府軍人として各地を転戦しながら北に向かい、函館・五稜郭を奪ったのち蝦夷地占領を宣言して「蝦夷共和国」の総裁となる。函館戦争敗北後は護送されるも助命を受け新政府へ出仕、政治家として活躍する。
⑤ 舟八島を過ぐ / 正岡子規
万里吹き来る 波浪の風
往事を追思すれば 已に空と成る
青山一帯 人見えず
唯 淡濃 烟霧の籠むる有り
訳「遥か彼方から、波を立てるほどの強い風が吹いている。はるか昔、源平の屋島の戦いの事を思い起こすも、今となっては空しく、跡をとどめるものはない。辺り一面の山々には人影も見当たらない。ただ濃淡のあるもやが立ち込めているばかりである」
作者・正岡子規。明治時代の俳人、歌人。病の身でありながらも数々の文学活動を行った。明治を代表する文学者の一人。
瀬戸内海を船で渡る途中、八島(屋島、香川県高松市)を過ぎる際にかつてここで行われた源平合戦・屋島の戦いを思い浮かべながら作られた詩。
屋島の戦い。源義経の奇襲や「弓流し」、那須与一の「扇の的」の舞台にもなっている。
⑥ 豊公の旧宅に寄題す / 荻生徂徠
海を絶るの楼船大明を震わす
寧んぞ知らん此の地 柴荊を長ぜんとは
千山の風雨 時時悪しく
猶お作す当年叱咤の声
訳「(文禄・慶長の役、朝鮮出兵)大海を渡り押し寄せた軍船は大国明をも震わせた。その秀吉の居城も今は荒れるままに任せ、雑木のみ生い茂る事になっていると誰が想像できるであろうか。付近の山々は風雨激しく荒れ狂うことがある。それはあたかも秀吉が大声で軍勢を叱咤激励しているかのように聞こえるのである」
作者・荻生徂徠は江戸中期の儒学者。将軍綱吉もしばしば徂徠の講義を聞いたという。
秀吉の旧宅を想像して(寄題)作った詩。旧宅がどの場所を差しているのか諸説あり、有力なのが「伏見城(桃山城、京都)」となっている。確かに「旧宅」となっているので秀吉の本居城である伏見城が相応しいと思えるが、詩の内容を考えると「名護屋城(佐賀県唐津市)」の方がしっくりくる気がする。名護屋城はこの役(文禄・慶長)の九州の前線基地として築かれて、当時大坂城に次ぐ壮大な城、最盛期には城下町含め10万の人口で繁栄していたと伝わっています。今は整備はされているが当時の豪勢さを偲ばれるものは少なくまさにこの詩をイメージしやすい。あくまで個人的にではあるが。
⑦ 涼州詞 / 王之渙
黄河遠く上る 白雲の間
一片の孤城 万仞の山
羌笛何ぞ須いん 楊柳を怨むを
春光度らず 玉門関
訳「黄河をさかのぼって上流の白雲のたなびく辺り、ぽつんと一つ、砦が山の上に立っている。折から吹く姜族の笛の音は「折楊柳」の曲を哀切に奏でているが、そんな笛は吹く必要がない。それを聞いても悲しくはない、なぜなら、ここ玉門関までは春の光がやってこないのだから」
涼州の地でうまれた「涼州宮詩曲」。この曲節によって歌詞を作ったのを「涼州詞」とよんでいる。他に王翰の「涼州詞」。
楊柳=「折楊柳」という曲。別離の際、柳の枝を折って花向けにする習わしがあることから、それを主題にした曲。別れの曲。
後半二句はちょっとイメージしにくいが、あまりにも辺境の地での孤独感からの兵士の心境。普通なら聞いて悲しい「楊柳」の曲もここでは春の光さえわたってこないのだから少しも悲しくない。悲しみ窮まっての無感動を表現している。
王之渙(おうしかん)。唐の詩人。役人としては出世せず、長い間在野の詩人として活躍した。遠く辺塞に出征した兵士の、突き放されたような悲しみをうたった詩である。
⑧ 和歌・さえのぼる / 織田信長
さえのぼる 月にかかれる浮雲の
末ふきはらへ 四方の秋風
訳「鮮やかに登る月にかかる浮(憂き)雲は吹き払ってしまえ、天下布武の風にのせて」
織田信長。解説の余地のない戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。戦国乱世に覇を唱え、畿内を中心に独自の織田政権を確立した戦国時代の英雄といえる。
この和歌を理解するにあたっては資料が乏しく、浮雲の浮が「憂き」にかかってるというのはWeb上で見つけたのでなるほどと思った。対抗する勢力を憂きで表現して自らの覇道を表現したのかと勝手に解釈。間違っていたらすみません。
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