TVアニメ学校の怪談ふり返り⑧

今回は第8怪「地獄へと続く回路!!黄泉の鬼」です。レオが黄泉の国に迷い込む話しでしうが、今回のテーマは「死」そして「死後の世界」なのは明らかです。

常光徹著『学校の怪談 口承文学研究Ⅰ』にも「彼らは「死」についてつよい関心がある、というか見えない世界に対してさまざまな想像力を働かせる。」とあるように子どもたちは子どもたちなりに死というものを見つめているようです。なお、この発見の前提として学校では現実を見ることが強調されるからで、常光先生が教員時代に修学旅行で北枕を気にする生徒がいたこと等を例に挙げていました。

さてこの話しにおいて個人的に重要と感じた点は、①日本人の死後の世界観の反映、②迷うことってどういうこと?の2点です。

①について。皆さんは日本人の死後の世界を説明してくださいと言われたらできるでしょうか?私は説明できる自信がありません。というのも、日本人の死後の世界観は古典のうちからすでに多様な形で描かれているからです。

おおまかに言うと山、海、地下の3パターンがあります。簡単に見ていくと、

山・・・奈良時代くらいまでの大和地方などで見られる。埋葬先が山であったためか

海・・・常世の国と呼ばれる。九州や瀬戸内海地域などで見られる

地下・・・根の国や黄泉と呼ばれる。出雲や仏教・道教伝来以降は主流となる

というような感じかと思います。話に出てきたのは黄泉ネットを通して三途の川に行くという設定なので、よくプロットが練られていたものと思います。

余談ですが、レオが黄泉の鬼が化けてた女の子を追って行った際に十字路で一旦見失いますね。実は十字路も冥界への入り口とか、悪霊が集まる場所のように俗信では言われています。理由は、陰陽道等で鬼門・裏鬼門などがあるように鬼(死者の魂)は真っ直ぐ進むと考えられ、道が交差する十字路や丁字路は辻と呼ばれ縁起のよくない場所とされていました。なので、ここも細かい演出がなされています。

②について。また質問なのですが、迷うことって死と結びつくくらい怖いことですか?学校の怪談と言うジャンルは小学生~中学生くらいが対象かと思います。でも小学校中学年くらいになると、そもそも近所で迷ったりしなくないですか?現に話の最後にさつきが黄泉ネットができた原因について「引っ越したんじゃないの?道に迷う人もいないから」と言っているので、迷う=恐怖でさらに死につながるという図式は大袈裟なような気がすまし。

この点で大事なのは、二つあると思います。一つはやはり日本人の意識というか民俗学的なもので、夕方というのは黄昏(誰そ彼)時であり「川岸の向こうの人の顔さえ見えずあれは誰なんだ?と思う時間」とされています。三途の川のイメージと重なり、顔の見えない相手が死者だったらどうしよう。という伝統的恐怖感がある訳ですね。

そして、二つ目は学校秩序の問題です。学校の怪談は学校秩序と子ども達との緊張から生まれる。これは忘れてはならない点です。実は常光先生は学校の怪談の場は学校だけでなく、通学路や学区にもあると考えています。

そこで、皆さん小中学生の頃を思い出してみてください。学区外には一人で行ったらだめという校則がありませんでしたか?そう。なぜだめなのか?という疑問からくる恐怖感です。

さらに、地域によっては学区内でもさらに細かく地区に分かれていたりします。学区や地区が変わると住民同士の中がよくない場合もあり、「〇〇地区の人とは遊んではだめ」等と言われて育った人もいるかもしれません。なので、地域によっては迷い込んだ場所がもし学区外や仲の悪い地区だったらという恐怖があるのです。

これも余談ですが、学校では皆仲良くというのを強調されますね。でも地域によっては先述したような地区の問題があるため皆と仲良くできないというのがあります。第1怪でさつきが天邪鬼に友達になろうと言われて「嫌」というシーンがありますが、あのシーンもこういった問題を写す比喩のようなものでしょう。

最後に、本題とはずれますが。インターネットが舞台となったこの話し。2000年というのはIT革命と言って、公立学校などでもPC設置が進みました。ただ、当時の小学校の先生でインターネット操作を教えられる人は少なかったでしょう。子ども達をネットの危険に巻き込まれることがないようにちゃんと教えられるのかという問題提起もあったことと思います。

私は当時中学3年生でしたが、windowsになったのは2年生の時でした。私たちより1つ上の学年は今でいうコマンドプロットがそのままPCの画面のような機体を使っていたようです。なので、技術の先生くらいしかPCを教えられる人はいなかったです。そんな小さな混乱の時代だからできた話しだったのでしょう。

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